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■ きみを縛れたためしがない 2

 簀巻きを軍部に引き渡してくるというユキを見送ってから二階のスタッフルームに向かうと、ソファでのんびりとコーヒーを啜っていた男がその瞳をシロに向けた。
 均整のとれた体躯に黒髪黒目。その鋭い顔つきで、黒犬だと一目でわかる。

「長かったですね」

 シロを見てもニコリともしない。無愛想を絵に描いたような彼がどっしりと座っているソファの隣に、シロは腰を下ろして、そのまま背凭れにぐったりと倒れ込んだ。

「だってユキの説教が長いんだもん。正座させられて叱られるなんて、数十年ぶりだよ」

「どうせシロさんがくだらない言い訳して長引かせたんでしょ」

 視線をコーヒーに戻し歯牙にもかけない黒犬に、シロは掴みかからんばかりの勢いで不満を述べる。

「違うんだって、クロ。俺は本当にあの人がモンさんだと思ったんだって!」

 頭一つ分ほど低いシロを、クロと呼ばれた黒犬は冷めた目で見つめた。

「モンさんってあんな胡散臭いネズミなんですか」

 いつもお世話になってます、という当たり障りのなさすぎる言葉と共にシロに近づいたネズミは、明らかにこの国の流行としては古すぎる燕尾服を着ていた。

「うっ……それは、わかんないけど……。でも、田舎から出てきたから気合入ってるってことも、あるかもじゃん……?」

 クロは一目見てあやしい奴だと思って追い払おうとしたのに、シロが「あー!モンさん?」なんて話しかけて、そのネズミも「はいそうです、モンです。いつもお世話になってます」なんて言うものだから、変だなと思いつつも信用して店に入れた。
 しかしそのネズミが「ちょっとお話が」なんて言いながらシロを店から連れ出したあと無理矢理連れ去ろうとしたとかで、そこにたまたま通りかかったお陰でシロを取り返すことのできたユキは、自分が居合わせなかったらどうなっていたかと大変お怒りだったのだ。正座で済んでよかったじゃないかとクロは思う。
 聞けば、シロはモンさんなる人物をメールと電話でしか知らず、会ったこともないのにネズミだと聞いていたからという理由だけで奴隷商人をモンだと思ったのだというから、ネズミなら何でもいいのかとユキに叱られても文句は言えない。そんなシロのとばっちりを受けて、クロまでユキに叱られた。曰く「シロさんをちゃんと見張っとけ」。

 ユキは確かにこのリストランテ・ディーノのオーナーであり、クロはこの店に雇われたウェイターである。しかしクロが仰せつかっている仕事は給仕であり、シロの管理監督は仕事のうちに入っていない……とは思ったが、基本、ユキには逆らわないことにしているクロは大人しく「すいませんでした」と頭を下げた。そうして、説教から逃げ出そうとしていたシロを捕まえてユキに差し出したのだ。
 ユキに首根っこを掴まれてぶら下げられたシロは暴れながらも「お前はユキの狗か?!裏切り者……!」などとわめいていたが、実際のところクロは犬だしユキに雇われた身だし、そんな罵倒は痛くも痒くもない。

 18歳になったばかりのクロにとってユキは、年齢は3つしか違わないけれど、どうがんばったってかないっこない格上の強者だった。ディーノに来るときも仕事の合間が多く、そんな時はいつも黒い制服をピシッと着ていて“デキる男”臭が半端ない。そして、キレもの揃いとして有名な中央機関所属、見た目だけでなく実際“デキる”。
 そんな男を敵に回すなど勘弁して欲しかった。シロは、たとえユキに叱られたとしても殺されたりなどしないのだから、他に助けなど求めず、おとなしく叱られていて欲しいものだとクロは思う。

 ──シロさんは、ユキさんの恐さを知らないからタチが悪いよなぁ……。

 中央機関といえば実務能力が高くなければ務まらないが、それ以上に、各機関を統率する立場として高度に政治的な判断を求められることも往々にしてある。ただ優秀なだけのやつや、“善人”“悪人”なんていう括りに収まってしまうような薄っぺらいものでは務まらないところとして有名なのだ。
 その黒い制服を見れば、どんなゴロツキでも道を開ける。
 ユキもまた中央機関の人間として様々な超法規的特権を有しているはずだし、またそんなものを使わなくてもクロ一匹社会的に抹殺することなど赤子の手をひねるより簡単のはずだ。この首都で生まれ育ったクロは、中央機関の恐ろしさなど耳にタコができるほど聞かされてきている。

「まあ、なんでもいいですけどね。シロさんがユキさんの機嫌さえとっといてくれりゃ」

 クロが気にするのはその一点である。シロが正座させられようが撫で回されようが、最終的にユキの機嫌が直ればそれでいい。率直な意見を述べたクロに、シロは呆れたような視線を寄越した。

「お前、若いのにそんな諦観した態度でいいのか?ユキにガツンと一発くれてやって、目にもの見せてやるってくらいの気概を持てよ」

 右手を握りしめて作った握りこぶしをブンブン振って、シロは勇ましい表情を作る。けれど、どんなにがんばったところでホワイトタイガー相手に『ガツンと一発』やれるようには少しも見えなかった。
 クロは初めてユキに会った時、すぐに「あぁこれは逆らっちゃダメな相手だ」と悟って服従の姿勢を示した。しかしそのユキにウエイターとして雇われることとなり、「まずは面接」と履歴書片手に連れて行かれた先にいたのがシロだった時には、何か裏があるんじゃないかと疑った。そのくらい、シロとユキの組み合わせは意外だったのだ。
 ただ街を歩いているだけでも人目を引くほどの容姿の持ち主で、しかも上位種で中央機関所属。そんなユキの番いがもう一人のオーナーだと聞いていたので、さらに輪をかけて恐ろしい存在に違いないと覚悟して行ったのだ。地獄の番人・ケルベロスか、それともガルムか。そんな想像しながら出向いたのに、ユキに連れられて到着したディーノにいたのは小さな一匹の白い猫だった。
 スラリとした身体を積もりたての雪ような真っ白な毛が覆っていて、きょとんとこっちを見てくる瞳は、春の若草のような碧色。綺麗な猫だと思ったし、白いシャツに黒いエプロンを付けただけというシンプルな服装なのに不思議と色気があった。際立って華やかというわけでもないのに、妙にそそられる美人だとは思った。……けれど、でも、ただの猫だった。

 ──番いって言ってたけど、要は愛人か……。

 そう、その場は納得した。
 後に、シロは愛人などではなく正真正銘ユキの大本命で、しかもクロより7つも年上だと知って仰天したのだけれど、クロが最初に認識した上下関係に以後も変更は生じていない。シロもこのディーノのオーナーであり、さらにはシェフで上司に当たるはずなのだが、クロにとって意向を注意すべきはあくまでユキの方だ。シロの意向は、まあ自らの利害に反しない限りにおいては聞いてやろう、といった程度でしかない。
 だからこの時も、先輩風を吹かせるシロを「 ハイハイ」と言って適当にあしらっただけで、シロが頬を膨らませたことに気づいてはいたけれど全く頓着をしなかった。

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