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■ 記憶の窒息 1

 重く、頭上からのし掛かるように雲を垂れ込めさせていた空が白い雪をちらちらと舞わせ始めると、それはすぐにぼた雪へと変わった。地面に落ちてすぐに溶けてなくなるが、次第次第に落ちるうちにも消えず残るものが現れ始め、その数を増していく。そうして段々と地表が、植え込みが、街が、屋根が、白く染められていくのをユキはただじっと見ていた。

 世界地図の中でも最北部に位置するレース・プーブリカ共和国は、冬の三ヶ月は完全に雪と氷に閉ざされる。交易の要所である北部の港は凍り付き、小型船さえも近寄れない。東西の陸路も氷に覆われて使い物にならず、首都を支える空路は氷に覆われ、鳥さえ上空を通りすぎないと言われた。
 商店も飲食店は全て閉まり、街は加工食品を扱う店だけが細々と営業を続ける、ゴーストタウンと化す。そんな有様であるから、ひとびとは秋口のうちに食品を買い込み、来たるべき冬に備える。そうしていざ“白い悪魔”が空から舞い来るようになると、家の奥深くに閉じ籠るのだ。

 そんな冬を何十回も過ごしてきたはずのユキに、今その記憶はない。しかし散らつくこの雪を見ていると何か、とても大切なことを忘れているような気にさせられた。
 自分がどんな人間で、どんなことを考え、どうやって生きてきたか。情報を余さず集めたはずなのに、それでもまだ足りないような気がしている。白く舞う雪を見て勝手にじくじくと痛む胸は、まるでこの白雪を見るといつも何かを思って胸を痛めていたかつてのことを、自分だけは今でも覚えていると訴えているかのようだった。

「ユキさん」

 呼ぶ声に振り向くと、ユキの下で働いていたという黒犬が雪の上をまろぶように駆けてくる。彼は、ユキがオーナーをしている料理店のウェイターをしていたが、店がずっと臨時休業を続けているために中央機関の下請けの仕事に戻ったのだという。
 昔は共に仕事をした仲間で、今は自分の料理店の従業員。だというのにユキは、どうしても彼のことが好きになれない。理由はわかっている。彼は好き好んで中央機関の下請けの仕事に戻った癖に、そうなる原因を作ったとでも言いたげに時折責めるような目でユキを見るからだ。
 彼が働く料理店の休業はユキが決めたことではないし、ユキが責められる謂れはない。それを決めたのは“彼”なのだから、 文句ならば“彼”に言えばいいと思う。だが今のクロにそれができないことも理解はしている。だからユキは特に何も言わない。

「主要道の対雪工事は全て終わりました。後は配管関係ですね。北部ではもう凍り付いているところもあるようで、ライフラインが遮断されたとの報告が入っています」

 明瞭に要点だけを伝えてくる、そのこと自体は悪くない──むしろ使いやすい部下の部類に入るのに、その目だけが苦手だ。ユキはクロから目線を外し、手元の書類に視線を転じた。

「水道管が最優先だな。同じ報告を軍部にも入れておけ」

 レース・プーブリカの冬において最も優先すべきは、人命。鉄鋼・ゴム・火薬、有機物・無機物問わずありとあらゆるものを氷に変える死の季節であるから、他国のものは航空機も車両も戦艦さえもレース・プーブリカの冬には耐えられない。だから冬の間だけは外からの侵略の心配をしなくてもよかったが、そのあまりの苛酷さ故に凍土が多くのひとを死者へと変えるのもまた事実だった。ゆえに冬場は行政機関のみならず全ての国営機関がその対応に当たる。中央機関ことリーネア・レクタの末端組織も同様だった。

「わかりました。……ユキさんは、明日からは本部の仕事に戻るんですよね?」

「ああ」

 退院して職場復帰を果たした後、ユキは様子見としてしばらくリーネア・レクタ本部を離れて末端の様々な仕事に携わっていた。しかし一ヶ月経ち、問題なしとして本部復帰を命じられたのはつい先日のこと。それはユキに、たとえあの事故の後遺症があっても──記憶を失っていても、問題なく業務がこなせると認められた証でもあった。
 ユキの言葉に黙って頷いたクロだったが、次の瞬間に物言いたげな視線を寄越す。その意味は十分すぎるほど理解できたが、それに答える義理は今のユキにはない。
 無言で視線を外し、黒地に双頭の鷲の機章を見上げる。何度も見、またその身に負ってきたはずのリーネア・レクタの機旗だったが、それにも懐かしさのようなものは感じられなかった。

「お疲れ様」

 背を向けて言った一言に、クロは小さな声で「はい」とだけ返す。追ってくる気配は、なかった。



 リーネア・レクタ本部から徒歩二十分ほどのところにある石造りの二階建てメゾネット。この辺りの建物の中では比較的小ぢんまりとしているが、それでもユキが21になったばかりであることを考えれば決して貧相な住居とは言えない。むしろ分不相応な方だった。
 しかもユキは三年前、18の時にこの家を購入している。当時、契約を結んだ不動産業者によると即時契約、即金だったという。学生時代からリーネア・レクタに頭脳を貸し、その見返りとして得ていた莫大な謝礼金を全てつぎ込んだ。何故そこまでしてこの家を手に入れようとしたのか、今のユキにはわからない。
 重い錠前を開けて中に足を踏み入れると、ひんやりとした冷気がユキを迎えた。一階はキッチンとリビングルーム。そして小さなサンルームも付いていた。このサンルームは、大型の建物によって太陽光を遮られがちな首都の住戸にしては珍しく日当たりがよく、高級住宅街のこの界隈でもここほど陽の入るところはないという。三年前ユキにこの家を売ったという不動産業者は、ユキはそこが気に入ったようだったと話した。


『少しでも陽が入れば、冬の寒さも違うからとおっしゃって』

 獣種はホワイトタイガーに属するユキは、他種に比べれば寒さに強い。極寒と称されるレース・プーブリカの冬も、今がまだ初冬であることを差し引いてもそこまでつらくは思われなかった。なのに、ユキはその寒さを緩和させるためにここに住むことを決めたという。それは明らかにユキ以外のもののためだった。
 二階は風呂場などの水周り、そして部屋が三つ。一つはユキの書斎で、もう一つは寝室。残る一つは、今は空き部屋になっていた。
 そのうちの一つ、寝室に荷物を置き、ベッドに横たわる。程良いスプリングが身体を受け止め、沈み込むのを防ぐ。一匹で寝るには大きすぎるベッドは、大の字になってもまだ余る。
 今のこの家にユキを迎えるものは何もなく、物音一つしない。


 この家でユキと暮らしていたという白猫が姿を消してから、一ヶ月が経とうとしていた。

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