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■ 贈り物に愛を添える 1

「シロー、ズッパあがったぞ-」

「はーい!」

 返事をして厨房に向かいながら、席々の食事済みの皿を下げていく。
 両手に限界まで抱えた皿を流しに積み上げ、厨房との仕切りのテーブルに向かうとそこにはまだじゅうじゅうと音を立てるズッパ・ディ・ペシェが控えていた。ナプキンで取っ手を掴み上げ、狭い通路に注意しながら注文客の元へ届ける。
 あり合わせの魚介類を小鍋にぶち込んで煮るズッパは、このリストランテ・ディーノの名物料理の一つ。これが看板に掛かる日をずっと待っていたという客からは、小さく歓声が上がった。

 


 注文をとって料理を運んで片付けて、会計をして送り出して、合間に皿も洗って。それら全てが複雑に絡み合ったハードな時間を夕方六時から二十三時まで五時間、みっちり過ごしてからようやく閉店の看板を表に掛ける。溜まりに溜まった皿を洗い終え、皿を棚に戻すとシロはぐったりと椅子に腰掛けた。
 ディーノはこの町で唯一のまともな料理店。それをたった二匹で回しているため、いつも戦場のごとき有様だった。

「お疲れ」

 こつん、とシロの頭に何かが当てられる。顔を上げると、オーナーシェフのトキがガラス瓶を傾けていた。

「……ありがと」

 受け取った瞬間、レモンの香りが鼻につく。舐めてみると、その正体はジンジャエールにレモン汁を絞っただけのお手軽飲料だったが、疲労した身体には酸味が効いた。ごくごくと喉を鳴らしてラッパ飲みするシロの頭をトキはくしゃりと撫でる。それから隣の椅子に自身もだらっと腰掛けた。
 トキは、実はもう中年の年齢に達しているのだけれど、見た目からは決してそんな風には見えない。黒と茶の混じったサビ色の狼で、顔立ちだって整っているのに全体的にいつもだらっとしている。やる気のない若者のようなそんな態度が、彼の年齢不詳っぷりに拍車を掛けていた。今だって、ふさふさとしたしっぽは力なく床の上に垂れている。

「ねえ、トキさん」

 シロの声に、力なく伏せていた耳がぴくりと動き、琥珀色の目がこちらを向く。べっこう飴をどろどろに溶かしたような薄い色彩。それを見つめ返して、シロはぱたぱたとしっぽを動かした。

「おれ、久々にトキさんのオムレツ食べたい」

 何かを期待するようにゆらゆらとうごめくシロのしっぽを、トキは片手でぱしっと捉える。ぴっ、と毛を立てたシロを呆れたような目で見つめた。

「オムレツって“アレ”か。……一日ずっと料理作って疲れ果ててる今の俺に、それを言うかねぇ」

 掴まれたまま離してもらえないしっぽに身体をびくびくと震わせつつ、シロは上目遣いでトキを見上げる。

「だって無性に食べたくなってきちゃって」

 フライパンを傾けながら中心を回転させて卵を巻きつけていく特殊なオムレツは、トキの考案した創作料理の一つ。だが手間と時間と材料費がかかりすぎることから、店では出していない秘密のメニューだった。これを食べたことがあるのはこの世でたった一匹、シロだけ。
 シロのおねだりにトキは天井に向けてため息をついて、ゆっくりと立ち上がる。しっぽをずるずると引きずりながらも冷蔵庫の前に行き、たまごを取り出して作ろうとしてくれる背中に、シロの胸はきゅうっと痛くなる。
 ぱたぱたと駆け寄ってその背中にぎゅっと抱きつくと、ネコ科のものとは違う、イヌ科の動物の匂いがした。最初は近づくのが少し恐かったのに、今ではすっかり慣れてしまったその匂いを深く吸い込む。そんなシロの頭をトキの大きな手がふわりと撫でた。

「せっかくだし、作り方もう一度ちゃんと見て覚えとけ。お前、これだけは未だに作れねえんだから」

「……うん」

 リストランテ・ディーノで働き始めて五年。それまでは包丁を持ったことすらなかったシロに、トキは一から料理を教えてくれた。今では、簡単なものなら店に出せるくらいにまで上達した。けれどこのトキ特製のオムレツだけはどうしてもうまく作れない。それは、この料理が非常に特殊で難しいというのも理由の一つだけれど。
 たまご液を器用に回して巻きつけていくトキの手元をじっと見る。
 料理というものに一家言あるトキは、基本、作りたい時に作りたい料理を作り、作りたくない時には誰に命令されても絶対に作らない。それが許されるのは、トキが狼という上位種であることに加えて、シロの地元のこの町が時間や約束にルーズだからだ。列車がちょっと遅れたくらい何とも思わないこの町の住人たちは、料理店のシェフが気まぐれに店を閉めてもあまり気にしない。だからディーノは予約不可の不定休で、突然休みになったり開店になったりしながらのんきに営業をしていた。
 そんなトキだがシロにだけは、いつも無条件で無償で料理を作ってくれた。どんなに忙しくても気が乗らなくても、シロがねだればいつも料理を作ってくれたのだ。しかし段々と料理を教えてもらって作れるレシピが増えてきて、今やほとんどの料理を作れるようになったシロは、トキにねだっても逆に「作ってみろ」と言われるようになった。トキに作って欲しいのに、練習しろと言われるばかりで、ちっとも作ってくれない。けれどそんなトキがこのオムレツだけは、シロがまだマスターしていないからという理由で未だにシロのために腕をふるってくれるのだ。だからついつい、修行もおろそかになる。
 今も、面倒くさげにしっぽを垂らしながらも、シロのためにオムレツを作ってくれていることが嬉しくて仕方がなかった。
 けれど、そんな居心地のいいぬるま湯のようなこの関係も、もう終わりにしなければならなかった。ユキの番いになるなら、この狼のあたたかな懐から離れなければならない。

 昨夜ユキがシロに言ったのは、きっとそういうことだ。

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