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■ 愛してるって言って 1

 その日ユキは、レース・プーブリカにやってくるという要人応対を命じられていた。
 本来ならば、政府要人への対応は行政府管轄の仕事である。にも関わらずリーネア・レクタこと中央機関のユキに仕事が回ってきたということは、行政府と繋がりを持たせたくない類いの人物だということだ。

 ──面倒なことにならなきゃいいけど。

 そう思いながらも到着ラウンジをじっと見つめるユキと、護衛として軍部から派遣された青年一名の前に、定刻通りに大型旅客機が到着した。レース・プーブリカ共和国行きの航空機は特に検査・検閲が厳しいことで知られており、手荷物の持ち込みも一切許されていない。故に皆、飛行機からは手ぶらでスタスタと降りてくる。その後でラウンジで荷物を受け取り、迎えのものと合流するのだ。
 再会を喜ぶもの、待ち合わせ相手を探すものなどで溢れる空港で、ユキと青年はそれらしき人物を探す。だがひとが多いことと相俟ってそれは一向に見当たらなかった。

「全然わかんないですね……。見落とさないようにしないと」

 きょろきょろ見回しながら話しかけてくる青年に頷きつつ、ユキも視線を周囲に巡らせる。要人ならば軍用機で来ればいいものを、プライベートだからと言って一般旅客機で一般人に紛れて渡国するのだ、その要人は。迷惑な話だと思ううちに国内機も到着したらしく、ラウンジは国内外のものたちでさらにごった返した。
 もしここでユキたちが見つけられなくとも入国審査で引っかかるはずなので、その連絡を待てばいい。しかし早々に諦めて遊んでいるわけにもいかず、ユキは腕組みをしてただひたすらに人混みに目を凝らす。
 その視線の先で、様々な獣種の人ごみからぽこんと頭一つ抜け出た人影があった。その姿を自然と目で追ってしまってから、ユキは群青のその瞳を大きく見開いた。

「……あいつは……」

 黒と茶の混じったサビ色。着ているものが汚れているというわけでもないのに、ダウンタウンの町並みにもあっさり溶け込んでしまえそうな、妙に場馴れした雰囲気を纏うその姿。それに見覚えがあった。

「ユキさん?……あの狼が、その“要人”ですか?」

 問い掛けてくる軍部の青年に、違うと言葉を返したいのに喉がコクリと鳴っただけで声が出ない。驚きと、それだけに留まらない複雑な感情が同時に押し寄せて、固まるユキに相手の方もようやく気付いた。

「あっれ。ユキじゃん」

 わずかに片目を眇めてひらひらと手を振るその姿には、気負いもてらいもない。ゆったりとした足取りで歩いてきて、数メートルの距離のところでぴたりと立ち止まった。思わず身構えたユキに、トキはあっけらかんとした声で問うた。

「何してんだよ?」

 何してる、と尋ねられて業務内容を告げるほど馬鹿ではない。また、トキにそこまで信頼を置いているわけでもない。

「…………仕事」

 それだけを端的に答えたユキに、トキは気を悪くするでもなく愉しげに「へぇ」と応じた。

「あんたこそ、なんで空港なんかに」

 しかもここは、到着便のラウンジ。
 シロがトキと別れた当初はその足取りが気になって調査していたから、トキが国内をあちらこちらとぷらぷら遊び歩いていたのを知っている。しかし少し前からトキの跡を追わなくなっていた。だから今彼がどこにいるのか全く知らなかったのだが、まさか国外に出ていたとは思わなかった。けれど元来が旅人気質の男だから、さほど不審でもない。大型肉食獣の彼ならば国外に出てもあまり危険はないから、国内に飽きたら外に出るという選択肢は十分にあり得る。
 だからそれは、本当に不思議に思って聞いたと言うよりは、問われっぱなしも癪に障ると思って発しただけの質問だったのだが。何気ないその問いに、予想外の返答があった。

「ウルブスの宮廷料理人してんだ。今は、一時帰国」

「………。ウルブス……?」

 レース・プーブリカ共和国の西に位置する大国、ウルブス。隣国だから、渡航は全く難しくない。……地理的な意味では。
 だがかの国は強力な軍事国家として有名だ。そのことが何よりも大きな問題だった。何故よりにもよってそんな国に、という思いからユキの中で不審感が募る。
 ウルブスは軍部が全権を掌握し統治を行なう典型的な軍事国家。故に上層部は全て大型肉食獣で占められている……というより、肉食獣しか必要としないような国だ。また彼らは科学技術を軍事転用して領土拡大を図っているから、他国の技術も喉から手が出るほど欲している。それを懸念してレース・プーブリカの科学技術者及び研究者たちはその分野を問わず学術機関・プラエスタトに一括管理され、旅行さえ許可がなければできないほどだ。料理人はその範疇ではないが、それでも料理人もれっきとした技術職。その立場の重さは自覚して然るべきだ。
 獣人たちがそれぞれ独立国家を形成しているこの世界で料理人とは、その獣種ごとの特性や生態を把握して料理を作り、提供する仕事を意味する。陸上の肉食獣やワニのような爬虫類は肉も魚も食べるからいいが、草食性の獣種に動物性蛋白質を与えるとそのままホルモン異常を起こして死ぬ可能性もある。また鮫や鯱といった魚類の食事に、誤って陸上動物成分の含まれた調味料など使おうものなら、毒殺を意図したととられてもおかしくない。
 獣種が一種類しか存在しない国ならば話は簡単だ。または、特定の獣種に偏った一つの所に仕えるのならば。
 だが全ての獣種を差別なく受け入れ、種族のるつぼとも称されるレース・プーブリカ共和国においてそれは並大抵のことではない。故にレース・プーブリカの料理人は同じ一品でも獣種別に数十パターンの調理が可能であって、そうでなければこの国では料理人を名乗れない。現にシロも、クロから渡されるオーダーと獣種が書かれたメモに従い、全ての料理を作り分ける。それをいとも簡単に、当然のように行えるのがレース・プーブリカの料理人であり、故にレース・プーブリカの料理人の技術が最高水準にあるのもまた自明のことであった。
 彼らは、誰に対しても分け隔てなく料理を提供することを──提供できることを、誇りとする。だから宮廷料理人、お抱えシェフなどというのは名誉職でもなんでもない。特にウルブスの宮廷などという肉食獣しかいない場所で働くのは、何百・何千というレシピを持たず、作り分けもできない三流料理人の仕事だ──そういう意識がレース・プーブリカの料理人たちにはある。
 だから、ウルブスがいくらレース・プーブリカの料理人を欲しがったとしても、仕えるメリットが料理人側にはない。研究環境さえ整っていれば所属などどこでもいいと考える科学者たちとは違って、料理人に対しては渡航規制が掛かっていないのはそのためなのだ。決してその存在と、伴う責務が軽いわけではない。

 自然、眉間に皺が寄る。だがトキはなおもあっけらかんと笑った。

「そんな恐ぇ顔すんな。ただのバイトだよ」

「バイトって……」

 軍事国家として有名なあの国が、そんな生半可なことを許すだろうか。
 そんなユキの心配をよそにトキは楽しそうな表情を崩さない。そんな二匹の間に挟まれた軍部の青年が、申し訳なさそうに小さな声で口を挟んだ。

「あの、ユキさん……。こちらが、その……」

「あぁ……」

 戸惑い気味の青年に頷いて、ちらりとトキに目をやる。それから青年に向き直り、正式にトキを紹介した。

「私事で申し訳ない。ただの知人だ。トキノ・ピルキス。ウルブスの宮廷に仕える料理人だそうだ。国籍は……、まだ、レース・プーブリカですか?」

「この先もずっとレース・プーブリカだよ。亡命者になった覚えもなるつもりもねぇし」

 ユキの嫌味をさらりと流してトキは青年に向かって右手を差し出す。その手を握り、ためらいがちに名前と軍位を述べた彼は、次にユキを見上げて黙り込んだ。
 その視線の意味に気づきながらも、ユキは軍人の彼の方も、トキの方も見ない。そんなユキの態度にトキは今度こそ声をあげて笑った。

「挨拶もなしかよ。ユキヒロ・シオン」

 名乗られたらその場にいる全員が改めて名乗るのが当然の礼儀。それを拒否したユキの方が先に礼を失しているのだが、トキがわざわざ本名を呼んだことで、ユキの眉間にますます皺が寄る。レース・プーブリカでは名前は愛称で呼ぶのが一般的で、わざわざ本名で呼ぶのは改まった時か、親しくない相手と決まっている。

「……今更」

 今更、どのツラ下げて挨拶をしろと言うのかと問いかける。彼と会ったのは今から遡ること8年前。それも和気藹々とした出会いなどではなかったというのに。

「今や、リーネア・レクタの統括官様か?出世したなあ」

 なのにトキは、まるで親戚の子どもに再会したかのように嬉しげにユキの制服を見つめる。その距離の詰め方も馴れ馴れしさも全てが8年前と同じで、ユキの中に苦いものが広がった。
 今はもう、前に会った時とは違う。ユキはただの非力な子どもではないし、トキだって誇りある料理人の立場を捨て、他国に宮仕えする身だという。リーネア・レクタという国防も司る中央機関に所属するユキの立場からすれば、トキを売国奴と罵っても何ら問題はない。そして超越権限を持つ統括官という立場を持ってすれば、今この場で拘束しても全く問題はないというのに。なのに同じように振る舞うその神経が理解できない。

 『トキさんはね、いつもお客さんのこと“俺があいつらを食わせて、生かしてやってんだ”って言ってたよ。お客さんにも、“ありがたがって食え”なんて言ってね』

 呆れたような顔をしながらも愉快そうに笑って、シロはいつもトキに料理人としての誇りを教えられた話をする。
 シロと同じ誇りを共有している、シロの尊敬をその身に受けている。にも関わらず、それをあっさりと捨てることができるトキのことがユキには全く理解できなかった。ユキならばシロの尊敬を裏切るような真似は絶対にできないし、したくない。何を犠牲にしても、シロの前では“尊敬されるべき自分”であろうとするだろう。そうしないトキに憎しみさえ感じるというのに。
 ユキは目を細めてトキをじっと見る。その視線に気づいたトキは、その日焼けした頬に嫌味な笑顔を浮かべた。

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