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■ きみを縛れたためしがない 1

 種族のるつぼ、と称されることの多いこの国では驚くほど多くの獣種が存在する。

 哺乳類、魚類、爬虫類、草食、肉食、……あらゆる種族が平和を満喫し得ているのは世界広しと言えどこの国だけで、他国では未だに差別や奴隷制度がなくならない。
 肉食獣が草食動物より力が強いのは道理であるが、だからといって草食動物が虐げられていい理由はない。草食動物の中には肉食獣よりはるかに賢いものもいるし、また小動物たちは手先が細かく精密作業に向いている。要は、向き不向きがあるということなのだ。──そんな理屈を振りかざすことができるのは、この国、レース・プーブリカ共和国の国民だけに許された特権だ。
 そんなレース・プーブリカに亡命したいという嘆願書はいつも内閣府に山と積まれていて、処理しても処理しても一向に減る気配を見せないし、密航問題は常に議会の頭を悩ませている。また逆に他国の王族や貴族からは、自国の奴隷流出を促すものであるとして、この国の在り方自体が目の敵にされている節もある。内政不干渉主義を貫いているにも関わらず、だ。
 報復として、レース・プーブリカの国民を無理矢理捕らえて奴隷として使役してやろうという、見下げ果てた奴らもいるのだと──…

 


「前に俺が話したのを、シロさんは全然聞いていなかったんだね?」

 にこり、と綺麗な顔に浮かべた笑みは、その目が笑っていないことを気にしなければやっぱり綺麗で、自然、シロの顔はひくりと引き攣る。

「聞いてました」

 タイル張りの冷たい床に正座させられたシロは、椅子に座って威風堂々と足を組む自分のパートナーを見上げる。自分の鼻先に、足を組んだユキの軍靴があるという屈辱的な状況にも屈せず、至極真面目に答えた。それが功を奏したのか、ユキの冷え切った空気もわずかに緩む。

「そう。じゃあなんであの男について行こうとしたの」

 組んだ足を解いて身体を起こす。あの男、と言いながらユキは顎で、部屋の片隅に簀巻きにされて転がされている物体を指し示した。

「ついて行こうとしたわけじゃなくて──。いつもキャベツ作ってくれてるモンさんだって言ってたから、挨拶くらいしようかと思って」

「思って、のこのこと裏路地について行ったところを車に詰め込まれて連れ去られそうになったんだね?」

 ぼそぼそと説明するシロの後半の言葉を全て引き取って、ユキは不機嫌そうにピクリと眉を動かす。
 両膝の上に握り締めた手を揃えて、耳を伏せて項垂れるシロをじっと見つめてから、一つ大きなため息をついた。

「シロさん、わかってる?国境越えちゃったら、どうがんばってももうこの国へは戻れないんだよ?死ぬまでずーっと、奴隷として働かされるんだよ?」

「わかってる……」

「わかってないよ。猫はね、力がないから労働現場になんか回されないの。マタタビ嗅がされて性欲処理の道具にされて、朝から晩まで突っ込まれるの。それで腸が裂けて死んだらその辺に捨てられるの。……シロさんは、そんな目に遭いたいの?」

 淡々と語るユキの声には感情など欠片もこもっていなくて、事実のみをただ冷静に羅列する。そのことが逆に、変に芝居じみた大袈裟な話をされるよりよっぽど聞くものの恐怖を煽った。
 青くなったシロが震えながら顔を横に振るのを確認して、ユキはほっとしたように一つ、ため息をつく。

「ヤり足りないなら、これからは毎日百回くらいヤってあげるから」

「ちょ……!待って、そんなん頼んでない!!」

 突然変わった話の方向に、思わずシロは身を乗り出す。
 ユキの番いになってから、ヤり足りないなんて思ったことは一度もない。元々あまり発情期らしい発情期もなく、時折、ひと恋しい気分の時に誰かにくっついているとムラっとするかなぁ程度だったシロは、現在、若虎の性欲が絶倫で困っているくらいなのだ。特にユキとは身体を寄せてぬくもりを感じているだけで幸せで、他にはなにもいらないくらいなのに、毎日百回なんてされたくない。死んでしまう。
 有言実行、言ったことは必ずやるユキに、頼むやめてくれと必死になって頭を下げたら、薄氷のように薄青い瞳でじっとシロを見て「じゃあもう知らないひとについて行ったりしないね?」と念を押された。
 知らないひとについて行かない、なんて、子猫の時分に言われたきりだ。もうすぐ25になろうという今になって、再びそれを誓わされるとは思わなかった。しかしあっさり騙された自覚はあるので、大人しく頷く。

「……心配かけて、ごめんなさい」

 ユキと初めて出会うよりずっと前、3つか4つの頃のシロは、気に入ったひとの後にぴこぴこついて行く癖があった。平和な田舎町だったから大きな問題に発展することもなく、連れ戻されて叱られる程度だったが、その度ごとに口にしてきた言葉が“心配かけて、ごめんなさい”だ。
 シロの両親は、これを聞くと必ず『わかっているなら何故ついて行ったのか』とさらに苛烈に怒ったけれど、ユキはその言葉を聞くと逆に黙り込んでしまった。床に降りてきてそのまま、シロをぎゅっと抱きしめる。

「……ユキ?」

 冷たいタイルの上に座り込んでシロを抱きしめたまま、動かない。シロの首筋に頭ごと埋めたユキの顔は見えない。どうしたのだろうと様子を窺っていると、抱きしめる手にさらに力がこもった。

「心配かけた、って本当に自覚してる?車に連れ込まれそうになってるシロさんを見た時、俺がどんな思いをしたのか……シロさんは、全然わかってないよ」

 珍しく恨みがましい様子でそう言ったユキは、シロの首筋にさらに顔を埋めた。くぐもった声だけか低く漏れる。

「胸のあたりがきゅってなって、手足が冷たくなって、目の前が真っ白になったんだよ……」

 小さく、そう呟くように言ったユキの声は、先ほどまでの不遜な声とはまるで違った。
 出会ったばかりの頃、ユキがよくこんな声でシロを呼んで、小さな手でぎゅっとシロの服を握り締めてきたのを思い出す。あの頃は、名前を呼んで頭を撫でてユキを安心させられたはずの自分が、今はユキにこんな声を出させている。

「ごめん……。もう絶対に知らないひとにはついて行かない。約束するから……」

 シロはユキの背に腕を回して、力いっぱい抱きしめる。
 その言葉にこくりと頷いたユキだったが、それからしばらくの間はずっとシロに縋り付くように抱きついたままで、ディーノの開店時間が迫ってもなかなか離してはくれなかった。

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