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■ 凍えるように小さな声で 1

「クーロー、まだ帰んねぇの?」

 一角を照らすライトだけを残した暗いオフィスで、キーを叩く音だけが響く。そこに割り込んだ声は底抜けに明るく、だが若干の呆れを含んでいる。

「もうちょい」

 振り返りもせず答える黒犬に、足音が近づく。空になった紙コップを前歯で噛みしめて弄びながらも、両手をキーから離さないその姿に、背後で止まった足音からは深い深い地から響くようなため息が聞こえた。

「お前さ、気持ちはわかるけどそんな生活してたらマジでぶっ倒れるぞ」

 ぎし、と音を立ててアオが隣の椅子に腰掛ける。机に片肘をついて覗き込んでくる顔をちらりと横目に見て、クロはようやく紙コップを口から離す。ふちは噛みしめすぎてくちゃくちゃになっていた。
 集中すると無意識のうちに何かを噛む癖は子犬の頃から。成犬となった今はもう、みっともないという自覚はあるが止められない。これをすると集中力が上がるのだから仕方ない、そう心中で言い訳をしてクロは紙コップをゴミ箱に投げ捨て、すぐにまた視線を端末に戻す。そしてそのまま、キーを叩き始めた。

「わかってる。それよりアレ、どうなった?」

 リストランテ・ディーノが臨時休業となったために一時的に職無しになったクロを呼び寄せてくれたかつての職場は、一度は辞めたものに対しては破格と言えるほどに色々と優遇をしてくれる。また、そこそこ優秀ではあるがユキほど飛び抜けて優秀というわけではない、上位種でもないただの黒犬のクロの復帰を快く許してくれた元職場の面々にも感謝をしていた。だが、だからと言って業務とは何ら関係のない、個人的なことを業務時間内に行うわけにもいかない。仕事を終えてから作業に取りかかるこの“個人的案件”のために、このところ深夜まで居残りをする日々が続いていた。
 暗闇の中、光る端末を操作し続けるクロにアオは、こて、と机に顔を伏せる。月光色にも似たペール・アプリコットのイタチの毛が、持ち主の気分を反映してか、心持ちぺたりと沈んだ。わかってる、と言いつつも、クロに作業を止める気のないのを見て取って、 アオはため息を一つ付いただけであっさりと説得を諦める。ひらひらと揺らす指先に小さなメモリスティックの基盤をつまんで掲げて見せた。

「ユキさんの護衛してた軍部のにーちゃんに話聞いてきた。狼さんのこと色々わかったし、……結構やばいこともわかった」

 そう言ってからアオはにやりと笑う。その顔からは、思い通りに事が運んだ満足のみがうかがえた。



 “シロの昔の男”だと言ってユキがアオに尾行させたという、サビ色の狼。その調査が上層部の判断により強制的に打ち切りとなったことに不満を抱き、アオが勝手に調査を再開したのは2ヶ月前のこと。

 『あれは絶対なんかヤバい案件だったんだって!』

 だから手伝えと訴えてくるアオに、クロは交換条件を出した。曰く、「アオの捜査を手伝う。その代わりに、こっちの調査も手伝え」と。お互い、誰にも指示されていない──むしろ業務規定違反に抵触する恐れさえある──個人的捜査であるから、単独捜査を続けていてもその成果はなかなかあがらない。だからそれを補い合うことにしたのだ。
 クロがアオの協力を仰いでまでも調べたかったことは、主に二つ。
 広場での爆破事件について中央機関ことリーネア・レクタは、爆破事件の首謀者と目されるライオンと、ユキ・シロの両名は無関係だとの判断を下した。しかしクロはその数日前に彼がディーノを訪れたことを知っている。あのライオンは結局のところ何ものだったのか。
 そしてもう一つ。この一ヶ月前、行方が知れないシロは一体どこにいるのか。
 クロが気になっているのは、その二つだった。

 シロがいなくなったことを知ったひとびとは、皆シロに同情を寄せる。番いに忘れられてつらかったのだろう、悲しかったのだろう、と。だがクロに言わせれば、そりゃあつらくなかった訳はないと思う。悲しくもあっただろう。落ち込んでいたのも見ていたし、いつも何かに耐えているようでもあった。そんなシロをクロが一番よく知っている。だが本当に、それだけが理由なのか。

 ──それだけなら、完全に姿を消す必要なんてない。……そんなこと、できない。

 ユキの中からシロの記憶がなくなったことだけが理由ならば、何もクロやアオや、そのほか多くのひとの前から姿を消す必要など何にもない。どこかユキの知らない場所へ行って、ユキのこともシロのことも知らないひとびとに囲まれて一から始める、そんな方法だってあった。なのにシロはそれをしなかった。それどころか、今なおその消息が知れないのだ。
 調べ始めた当初は、すぐに見つかるものと思っていた。行方を突き止めて、無事に暮らしていることがわかればそれでいいと思っていた。もう二度とディーノを再開するつもりがなくても、もう二度と包丁を握るつもりがなく、またこの首都に戻ることがなかったとしても。
 だが、調べれば調べるほどシロの行方は杳として知れず、クロの持てる情報網の全てを使っても未だその居場所はわからない。リーネア・レクタの情報網を使ってさえ見つからないなど、尋常のこととは思われなかった。

 ──もっとちゃんと、聞いておけばよかった。

 その後悔が、ずっとクロの胸を焼いている。ユキのことも、そして事件のことも、ライオンのことも。ちゃんとシロに聞いておけば、今こうして囚われている焦燥感が少しでも楽だったのではないか、何かヒントがあったのではないかと、そう思えてならない。
 それがクロを突き動かしていた。

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