■ うそつきの言い分 2
そんなことが少し前にあったから、アオが職場で“ユキさんの番い”という単語を耳にした時、すぐに『ああ、あのエロい美人』と思い出した。
リストランテ・ディーノのオーナーシェフで、クロの上司。
だが白猫の姿を探した視界に映ったのは、見知らぬ女豹と連れ立って歩いているユキの姿。
絵に描いたような美男美女ではあったが、正直に言えば意外だった。それは相手が白猫ではなかったことに加えて、その女豹は中央機関、リーネア・レクタの人間であったから。
職場での色恋沙汰など嫌がりそうなユキが、機関内の人間と噂になっているのも意外だったし、アオがファミレスで白猫を見たのが数日前、なのにもう次の番いかという呆れもあった。その女豹がユキの番いだと言うのなら、この数日の間に白猫と切れてすぐに次の相手に乗り換えたということになる。
「んなわけねぇって」
仕事を終えて帰る途中にクロを捕まえて、家に押しかけてそのことを話すと、意外にもクロは強い口調でユキの心変わりを否定した。
「なんでお前が否定すんの?」
率直に問えば、クロは「だって見てればわかるし」などとらしくないことを言う。
パキ、と音を立ててプルタブを開けて缶ビールを喉に流し込む。ぷは、と息を吐きながら十年来のダチを見やると、彼もビールを流し込みながらも眉間にシワを寄せて何事かを考えていた。
「“見てればわかる”ねえ……」
珍しい発言に感心していると、クロが睨んでくる。それに肩を竦めて見せてから、アオはもう一口ビールを含んだ。
「だってお前の持論じゃん。“永遠なんてない”……何、宗旨替え?」
面白ければなんだっていいと思っているアオは、永遠なんてあってもなくても構わないのだが、いつもそれを否定するのがクロという男だった。
天壌無窮変わらぬものなど何もないというのが持論で、有為転変するこの世の情勢を読んで渡っていくのが生きるということだと思っているような節がある。そのクロが、ユキに限って心変わりなどあり得ないなんてロマンチックなことを考えているのかと揶揄すると、不快そうに顔をしかめてクロはぐっとビールを呷った。
「別にそういうわけじゃねーって。ただ、ユキさんの溺愛っぷり半端ねぇから」
「だとしてもさ。“二匹目”がいないことにはならねーじゃん」
レース・プーブリカ共和国では正式な番いは一匹と決められているが、愛人を持ってはいけないという法はない。またユキの番いが誰であるにせよ、子どもを作っていなければそれは法的立場としてはとても弱い。
高度な科学技術によって経済発展を促進してきたレース・プーブリカでは、DNA情報を人造細胞に埋め込み、人一人創り出すことなど容易であるから同性婚は全く問題にならない。しかし自然妊娠に対する憧憬は今だに存在するし、番いが同性ならば愛人として異性を囲うパターンが多いことはよく知られていた。そうして、後から来た二匹目との間に子どもができればそれが正式な番いとなり、最初の番いは愛人へと転落する。
互いに性交渉をしたり子供を作ったりする相手が一匹しかいなければ何ら問題は生じないのだが、それが複数になった途端、“番い”という言葉は“子どもの親”という意味合いを多分に含むようになる。法的には、伴侶という意味合いよりも、養育義務に対する責任の所在といった意味合いの方が強いのだ。
ただし番いは常に一匹と決められているから、複数の相手との間に子どもを設けた場合は、一番最初に子どもを作った相手が法的根拠を持つ番いとして認められ、以降出来た子どもは全てDNA上繋がりはなくとも最初の番いの“子”とされる。
だから猫同士の番いに犬の子がいるなんて場合もあるわけで、犬の子の実の親は、どちらかの愛人なのだなと察しがつく。その場合は当然、犬の子には猫の姉か兄がいるわけで、猫の子より遅く子どもが出来たから犬の愛人は愛人の立場に置かれているだけに過ぎない。
だからユキの場合も、少し前までは白猫が番いであったとしても、この数日の間にユキが女豹と関係を持ち、彼女が身ごもったのだとしたら一転して彼女がユキの番いとなるわけだ。愛情の優劣とは関係なく、子どもがいるか否かが重要なのである。
当事者ではないクロがそれはないと断定し得る根拠はただ一つ、ユキが白猫以外と関係を持つはずがなく子どもも作るはずがないと考えるからで、そしてそれは永遠に変わらぬものなどないと考えるクロの持論に抵触する。ユキが白猫をどんなに大切にしていようが、彼らを取り巻く情勢は刻一刻と変わるわけで、子どもを作らねばならないような状況がいつ発生するともわからない。
どんなに栄華を誇ろうとも、趨勢はいずれ傾く。その“可能性”自体を否定するなんて、らしくないじゃないかと、ヘラヘラ笑いながら迫るアオをクロはただ黙って睨めつけた。
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「おい、イタチ」
明らかに揶揄を含んだ呼びかけが職場に響いたのに答えて、アオはPCの画面から目を離す。振り返ると、予想した通りの上司の姿が背後にあった。
「何すか。獣種差別っすよ」
軽く投げかけた言葉に、熊はニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべる。
「差別じゃねえ。褒めてんだ」
長年の付き合いで、それがこの熊のおっさんの本音であることはわかっている。だが知らぬものが聞けば誤解を与える発言であることには変わりなく、なのにそうやってアオに構うことをやめない彼に、アオは肩を竦めて見せた。
アオの職場は中央機関の下請け会社で、その手足となって働くのが主な仕事である。密偵から司法処理まであらゆることを請け負うため、中央機関本体ほどではないが確実に使える人材しか登用しない。そのような中で、イタチのアオは一際目立つ。確かにアオ自身、自分以外にこの業界でイタチなど見たことがない。
「そりゃあありがたいことで。んで?こないだの軍部の件すか」
先日中央機関が強制捜査に踏み切り、陸軍幹部と空軍軍人数名が奴隷商人と繋がっていたことを明らかにした事件は世間を震撼させた。その証拠品集めや司法文書作成にアオもついこの間までてんやわんやだったのだ。その甲斐あって、軍部を相手取った司法取引も成され、中央機関に有利な形で事が運んだと聞く。
また新たに作成せねばならない書類でもできたかと尋ねたアオに、熊はのんきに「いんや」と首を振った。
「ユキさんがお前に話があんだと。リーネア・レクタまで来いってさ」
「えぇー……」
まさに昨日刑事訴訟のための文書を作成して、リーネア・レクタこと中央機関に届けたばかりである。その際にユキと女豹がいるところを見て、“彼女はユキの番いではないか”という噂話を聞いた。クロと飲みながらそのことについてダラダラとしゃべって、適当なところで切り上げて自宅に戻った翌朝、早速ユキの顔を見るのは大変気まずい。
だが熊のおっさんはアオの反応を勘違いしたらしく同情するような顔を見せた。
「ユキさん細かいからなー。お前の書類にブチ切れてないといいな」
言われてようやく、そういえばそっちの方が大問題だったと思い出す。
アオは基本的に楽しいことや派手なことに首を突っ込むのが好きなので、人の注目を集めるような事件に関われる今の職場にも満足している。先日の軍部の事件など俄然はりきって積極的に仕事を引き受けた。
が、しかし元々アオは大雑把なタチで細かな作業に向いてない。うっかりミスくらいはいつもちょこちょこある。
対しユキは、作業は丁寧でノーミスが基本。さらにその場に応じてプラスαの働きもできる有能さで、中央機関内でも信頼が厚い。そんなアオとユキは、ひととしての相性はともかくとして、ビジネスの相手としては非常に相性が悪かった。普段は沈着冷静で穏やかなユキなのに、一旦何かが狂うと勘弁してくれレベルにしつこい。そしてそんなユキの堪忍袋の緒を叩き切ってしまうのはいつもアオの手がけた仕事なのだった。
「あの件、ユキさんの担当でしたっけ」
頭を抱えながら、指と指の間から上目遣いで窺うと、熊は哀れむような視線を向けてくる。
「そだよん。ユキさん直々に指揮とって現場に出たって」
「まじか──!」
もうだめだ、としゃがみ込んだアオに、熊のおっさんはポンポンと肩を叩いて慰めてくれる。
「ってか、ユキさんて実戦もイケるんすね。武闘派じゃねーのに」
中央機関にも武闘派と頭脳派がいるが、ユキは典型的な頭脳派だ。捜査方針に始まり、様々な戦略を立てて事後処理まで扱うのが彼の常の仕事である。エリート校在籍時代から秀才の誉れ高く、バイトの名目で中央機関にその頭脳を貸していたと聞いたことがある。どちらかといえば現場の武闘派を脳筋と馬鹿にするタイプだろう。なのに今回は珍しく現場に出て直接指揮をとったという。意外だ。
「まあなあ。いくら頭脳派ったって、あのひと虎だしなあ。能ある鷹はなんちゃらってやつだろ」
「その能ある頭脳派が、本業の方で俺を殺しにきてるんすね……」
ユキの頭脳にアオ如きがかなうわけがない。
「とりあえずアレだ、逆らうな」
ありがたすぎる助言に、一年前までいつも一緒に仕事をしていた相棒の言葉を思い出す。『ユキさんには逆らうな』『ユキさんの機嫌を損ねるな』──…
「クロ君、帰ってきて……」
うっうっ、と涙をこぼすアオに熊は呆れたような顔をする。
「今更遅いだろ」
高等教育に進んだあたりから、共にこの業界に片足を突っ込んだアオとクロ。だが、何くれとなくアオを注意叱咤して立ち回ってくれたクロは、一年前にあっさりとアオを見捨てて転職をしてしまった。その時引きとめなかったのだからこの期に及んで惜しんでも遅いというのは熊のおっさんの言う通りである。