■ うそつきの言い分 3
覚悟を決めて訪れた中央機関本部では案の定、不機嫌極まりないユキがアオを待ち構えていて、首根っこを掴まれてユキ個人の執務室にそのまま引き摺り込まれた。
豪華な給茶セットを備えたり、ソファを置いたり、オーディオセットなんか揃えちゃったりする幹部もいる中で、ユキの部屋はきっちり整理分類された資料がみっしりと壁全面を覆っている。四方を埋め尽くす資料の真ん中の空間に、ぽつんと立つ瀬なさそうに置かれているパイプ椅子に座らされて、アオはミスを一つ一つ確認された。
数字が違うが、これはこっちの資料に合わせて直していいのか。刑法第三条に則ってとあるが、第十三条の間違いではないか。ここにこの一文を追加したのは何か意図があってのことか。等々。
わざわざアオに聞かなくたって、アオがうっかり間違えたり何となく追加したりしただけで崇高な考えなどないことをユキは百も承知のはずなのに、一つ一つ丁寧に聞かれることに、聞かれる方もうんざりする。あーもーユキさんの好きにしてくださいと言いたくなるが、それを言うとさらに怒らせるから絶対に言うなとクロに言われたことをアオはちゃんと覚えていて、ただひたすらにハイハイすみませんすみませんと頭を下げる。
その甲斐あって丸一日かかったが夕方ごろにはようやく全ての確認作業が終わった。
やっと終わった、とため息をつきそうになってふと『ユキさんに怒られた後にため息つくな』とクロに言われたことを思い出して慌てて口を結ぶ。アオが口をへの字にし終わると同時に、ユキが大きくため息をついた。危なかった。ユキより先にため息をついたらまた怒らせるとこだった。
「えっとー……、お手数をおかけしました……」
へらり、と笑って見せたがユキは眉間に寄せた皺を緩めようとはしない。ただもう一度、ため息ををつく。
「お前、適当なことばかりしてるとそのうち本当に痛い目見るぞ」
その言葉は情愛に溢れていて、ユキが本当にアオの社会人としての資質を案じていることを物語る。『ユキさんみたいに度を越した完璧主義者なんてそうそういないから大丈夫っすよ』と言いたくなったが、そこは黙って、へへへと頭を掻くだけにとどめておく。仕事を離れればユキは決して悪いひとではなかった。
「いやー、相棒がいなくなってからどうにも……」
そこまで言いかけてから、そういえばクロはこのひとの店に勤めたのだったと思い出す。クロがユキの店で働きたいと言ったのか、ユキがクロを引き抜いたのか、その辺りの詳しいことは知らないが、なぜわざわざ選り好んでこのひとの下で働こうと思ったのかアオには理解できない。だが先日の様子だと、クロにしては珍しく心を寄せているようであったし、元来クロはユキの機嫌を読むことに長けていたからきっとうまくやっているのだろう。そう思い、「そういやクロ君、元気にしてます?」と尋ねてみると、ユキはようやく眉間の皺を緩めた。
「クロとは友達だったか」
「まあ、かれこれ十年以上の付き合いになりますねえ」
アオの言葉にユキは少し目を細めて、そうか、と呟く。それから長い脚を組んで椅子の背もたれに肘をついて、その上に顎を乗せた。
「よくやってくれてるよ。この案件でも、軍部が俺に濡れ衣着せようと画策してたのを、あいつの機転のお陰で免れたし」
「え!?そうなんすか?」
「そう。そのうち動くだろうと思って前々からエヘールシトの動きを追ってたけど、まさか俺に白羽の矢を立てるとは思わなかった」
頬杖をついてユキは淡々と語るが、その内容にアオはゾッとする。奴隷商人と通じていた濡れ衣を着せられるなんて恐ろしいことこの上ない。また、軍部を敵に回し正面切ってぶつかることになりでもしたら、いくらユキといえど無事では済まないだろう。
──何やってんだ、あいつ。
クロの転職理由は「平和に生きたい」だったのに、転職先の方が明らかにより危険な職場ではないか。
──今晩あたり、また突撃してやろ。
アオにもその話をしなかったのは、下手に情報漏洩してユキにとってまずいことになるのを恐れたからだろうが、ユキから聞いたといえばさすがに口を割るだろう。
小さくアオが決心したところで、コンコンと扉が叩く音がした。返事を待たずに開けられた戸の先にいたのは例の女豹で、アオは無意識のうちに身を強張らせる。だが、そんなアオに一瞥すら寄越さず、彼女はユキに艶然と微笑みかけた。ユキもまた立ち上がって彼女に近づき、親しげな様子で話しかける。
そんな様子を見てアオは少し、へえ、と思った。
アオの中でユキは悪いひとではないけれど、無駄なことはしないひと、という印象が強い。意味もなくダラダラと居座ってしゃべったり、じゃれ合ったりなどしないタイプ。現にユキは、アオとは無駄な会話というものをほとんどしない。
もちろん世間話や雑談などはするけれども、それもアオが雑多で乱雑な話をただとりとめもなく話すだけなのに対して、ユキの話は雑談に見えて最終的にはちゃんと回収されるべきところに話が回収されるように語られる。終わってからようやく、ああユキさんはそれを言うためにこの話を始めたのかとわかって、仕事の作業方針なり目的なり意図なりを理解させられているということが多かった。
だから、ユキの雑談や無駄話は決して“雑”でも“無駄”でもないとアオはいつも感じていて、それはアオの会社の同僚やリーネア・レクタのひとも同意見だったから、ユキとは“そういうひと”なのだと思っていた。
けれど、女豹と話すユキは少しの毒舌も交えながら彼女をからかったりしていて、やけに気安い。
──気に入った相手だと、ユキさんもこんな風に話すんだな……。
彼女が正式な“番い”なのか、はたまた“愛人”なのかはわからないが、親密な関係にあることは間違いがなさそうに見える。
──クロが「見てればわかる」って言ってたけど……なるほど。
ユキといえど感情というものは、なるほど意外と端からは見えるものだ、と。その時アオは、そんな感想を抱いた。
アオのやらかしまくったミスの処理が終わったとはいえ、重要書類の作成に今少し携わらねばならないのは変わりない。
事務処理能力に不信感を持たれているアオは、当面の間、中央機関本部での業務を命じられた。要は、後になって大量のミスをまとめて回されては面倒だから、ユキの監視下でやれというのである。
デスクを一つ与えられて、ちまちまと作業をしていると時折、ユキが覗き込んできて確認をする。今のところまだミスらしいミスはないのだが、どうやらユキから見たら、妙なことばかりやっているように見えて気になるらしい。
色々とこれは何だあれは何だと問われたが、一番変な顔をされたのは毎日違うフォントで入力を行うことである。だがそれに別に深い意味はなく、ただ単に、作業に飽きて雑になるのを防ぐために気分を変えて楽しく仕事をしようというアオの工夫である。眉間に皺を寄せて真剣に尋ねられても困る。
ひとのすることをいちいち気にするなとも言えないので、フォントの件をはじめとした全ての質問に「何となく」と答えていると、しまいには宇宙人を見るような目で見られた。
アオにとってはユキの方が宇宙人である。
しかしアオにとってユキは宇宙人であるけれども、そうして数日一緒の空間にいて仕事をしていると、ユキがいかに有能なのかということを改めて思い知らされたのも確かだった。
ユキの元には重要な案件が次々に持ち込まれるが、それを神業のような手際の良さで処理をしていく。幹部連中が雁首そろえてユキに相談に来ることもあって、あれこれと議論を重ねた末にユキの提案を採用したりする。
少なからぬ人間から信頼されており、また同僚や後輩、部下にとっては憧れの存在でもあるらしい。
そんなひとたちは、ユキに首根っこを掴まれているアオが羨ましくて仕方ないといった顔をする。当初は、ユキの監視の下仕事をするのが嫌で嫌で仕方なかったが、羨ましがられるとそれはそれで、ちょっとだけ優越感を感じたりするのがアオの単純なところだ。