■ 夢見る頃を過ぎても 2
かつてユキには、どうしようもなく好きで好きで仕方なくて、なのにどうしても手に入らないひとがいた。
初めて会った時から、そのひとはユキのことを溺愛と言って差し支えないほど特別に可愛がってくれた。
明るく華やかな雰囲気を持っていた彼は皆の人気者だったから、いつだってその周りにはひとがいた。皆が皆、そのひとのそばにいたくて話がしたくて、関心を向けてもらいたいと思っているのがひしひしと伝わってくる。4つも年上の彼を囲む人たちは、やはり皆ユキより4つ5つ年上で、その中に割って入る勇気など幼い頃のユキにはなかった。だから遠くから彼を囲む輪をじっと見つめているだけ。なのにそのひとは、ユキがそうして見ているとすぐに気づいて手招きして呼び寄せてくれて、太陽のような笑顔を向けてくれた。
可愛い可愛いと言ってもらえるのもユキだけ、頭を撫でてもらえるのも、膝に乗せてもらえるのも、そして彼の折れそうなほどに白く細い首に腕を回して抱きつくことが許されているのもユキだけだった。
頬を寄せて、そのひとの頬に顔をこすり付けて甘えると彼はくすぐったそうに笑う。けれど止めろと言われることは決してなくて、その首筋に顔をうずめて匂いを嗅いで、「シロさん大好き」と訴える。すると彼はいつも優しく頭を撫でてくれて、優しい声で「俺もユキが大好きだよ」と言ってくれた。
そんな特別扱いを思う存分満喫して成長した末の必然的な結果として、就学年齢に達する頃には、ユキの中に自分でもどうすることもできないほどの想いが育っていた。
もっとシロに触れて匂いを嗅いで、口付けてもっと深いところで繋がりたい。もっと特別な関係になりたくて、それを他の誰にも決して渡したくない。
純粋なる思慕は、やがて様々な欲望を巻き込んで一つの執着という明確な形を成していく。けれどその願いは、その時のユキには決して叶えられることのないもの。ゆえに渇望と焦燥に追われる日々を送っていたのが、8つの頃のユキだった。
「ふー……」
風呂から上がったシロが、ぺたぺたという足音を立てて隣の部屋に入るのが聞こえた。
父が死んでからシロの家の預かりの身になっているユキは、シロの隣の部屋を与えてもらっている。そしてシロ自身にはいつでも入っていいと言われていたから、今日もまた閉まったばかりの扉を何のためらいもなく開けた。
「シロさん」
ノックもせずにシロの部屋に立ち入ったユキをシロはちらりと振り返る。
風呂上がりで上気した頬はわずかに桃色を帯びており、いつもの抜けるような白さとはまた違った艶めかしさがあった。
「んー?」
咎めるわけではないトーンでシロは言って、ベッドに座り込んだまま、傍らまで来たユキを見上げる。そんなシロを見つめながらベッドに乗り上げて、ユキは背後から手を回してシロの腹を抱き寄せた。
薄い腹の前で手を交差させて、ぎゅっと抱いて自分の胸の前に引き寄せる。そのまま、目の前の首筋に顔を寄せると、シャンプーの香料に混じって嗅ぎ慣れたシロの匂いがした。
「そういえばさ、今日、先生が褒めてくれたよ。ユキ君はすごく頭がいいですねって」
シロは、にこ、と笑って嬉しそうな顔をする。
「こないだの定期考査も学年で一番だったんだって?」
振り向いて顔を覗き込んで尋ねようとするシロに、ユキは「うん」と返事だけ返して腕の力を緩めようとはしない。それでも、ユキの腕の中で無理やり振り向いたシロは、ユキの頭をよしよしと撫でた。
8歳になったユキはだいぶ背が伸び、シロと変わらないくらいにまで大きくなった。体格はまだ同年代の子たちより少し細かったが、その分、頭脳はずば抜けている。だから学校の先生に褒められるのはいつものことだったけれど、ユキにとってそれは何の意味もなさない。ただこうして、ユキが褒められるとシロが嬉しそうにしてくれるから受け取っているだけに過ぎないものだった。
ユキにとってはそんな陳腐な評価よりもっと喉から手が出るほどに欲しいものがある。今日はもしかしたら与えられるかもしれないと期待して、振り向いたシロの薄紅の唇に自らの唇を寄せた。
「こーら、ユキっ」
だがそれは重なる寸前でシロ自身によって阻まれる。ぱふっと軽い空気を含ませて、口にシロの手が当たった。
そのシロの行動は予想の範囲内のことではあったが、気落ちすることには変わりがない。だが、ユキが顔を曇らせたのを見て取って、シロの方が眉を下げた。
「ユキ、だめだよ」
「なんで?」
これまで幾度も繰り返したやり取りを今日もまた繰り返す。
「そういうのは、大人になって本当に好きなひとができてからじゃなきゃ」
幼な子を諭すように言うシロに、ユキは噛み付く。
「俺の好きなひとはシロさんだよ」
だから、とさらに言い募ろうとするユキをシロは首を振って止める。
「それは違うよ、ユキ」
それは違う、と繰り返すシロの言葉がユキの胸に突き刺さる。混じり気のない純粋な想いを否定されて、心が軋んで音を立てる。けれどここで引き下がってもやり場のないこの想いがわだかまるだけなのは、ユキ自身がよく理解していた。
「違わない。シロさんが好きなんだ。だからシロさんの番いになりたい。シロさんとずっと一緒にいたい」
ぎゅ、と抱きしめながら絞り出した言葉に、シロは少し苦しそうな声でユキの名を呼ぶ。けれど再び開いたシロの口から出てきた言葉は、ユキが望んだものとはかけ離れていた。
「ユキが俺のこと好きだって言ってくれて、一緒にいたいって言ってくれるのは嬉しいよ。……でも、違うんだよ、ユキ」
シロは、初めて会った時からずっと変わらない。今も、いつもと同じ柔らかい声でユキに優しく話し掛ける。なのにそのシロが、ユキの願いを断ち切る残酷な言葉を紡ぐのだった。
「ユキは、今はまだ学校と家しかない狭い世界の中にいて、出会えるひとも限られてる。だから、その中で一番親しい俺を番いにって思うのかもしれないけど……。でもこれから大人になって、もっと広い世界に出て行けばきっともっと色んなひとと出会える。そうしたら本当に番いになりたいひとが他にいるって、きっとわかるはずだよ」
何度も何度も繰り返し説かれるその言葉を、ユキは今日も首を振って拒絶する。けれどシロはやはり今日も、ユキの想いを認めようとはしなかった。
「いつかきっと、本当に好きなひとができるから。……だからそれまで、自分を安売りしちゃだめだよ」
いいこいいこと頭を撫でてくれるシロの手の感触は気持ちいいもののはずなのに、胸には苦く苦しい思いだけが満ちていく。
シロのことが好きで好きで仕方がなくて、自分でもどうしてこんなに好きなのかわからないほどなのに、それはまやかしだ、ニセモノだと言われる。ユキが本当に番いにと望むひとはシロではないはずだと、シロ自身が言う。“安売り”なんて言葉を使ってシロがシロ自身を貶める。その全てがユキにとっては他の何よりつらかった。
シロはいつも、ユキには何でも許してくれた。甘えてすり寄って縋り付いて、シロがシロの友達と遊ぶのを邪魔したこともある。シロを思うがままに独占して、考えつく限りの方法でその歓心を買い続けて8歳になった。甘えてねだればどんなことでも何でも聞き入れてくれたシロなのに、この願いだけは何度頼んでも決していいよとは言ってはくれない。シロの番いになりたい、シロを番いにしたい。その願いだけは、絶対に許してはくれなかった。
キスしたいだけならば、きっと無理やり手首をつかんで強引に唇を奪えば出来ないことじゃない。身体を重ねることも、あるいは。
時折思い描くこともある。無理やりシロの身体をベッドに押さえ付けて、その唇を塞いでしまおうか。舌で歯朶を割って入って、きっと甘くとろけているに違いないシロの舌を捕まえて、粘膜同士をこすり合わせればどんなにか気持ちいいだろう。身体を暴いて、その白い肌に触れて舐めて吸って、抱き合って。深い、深いところで繋がる。
肌と肌のこすれる感触、ぬめる舌の味、シロの唇から漏れる甘い吐息。それは、思い描くだけで目眩のするような甘美な想像だった。それが手に入るならば何を敵に回しても惜しくないとさえ思う。けれどそれをしたら、シロはきっと、もう二度とユキを好きだとは言ってくれない気がした。
可愛い弟分として、家族として、幼馴染としての、“好き”。それは決してユキの望むものではなかったけれど、真の望みが叶えられない以上、それさえも失ってシロの周りから排除されるのが恐かった。
ずっと一緒にいたいのに、二度と会えなくなるなんて絶対に嫌だ。
だから今日も、ユキに出来るのはただ黙ってシロの身体を抱きしめることだけ。そうして、目の前の白い首筋にそっと牙を立てる。
「…ッ。ユ、キ……っ!」
ネコ科の動物の甘噛みは求愛行動としての意味もあるけれど、子どもの兄弟同士ならばギリギリ親愛行動の範疇に入る。
ユキをあくまで“子ども”で“兄弟のようなもの”だとするのならば、この行動を非難することはできない。そんなことをするなと言えば、それはユキを求愛行動のできる成獣と認めたも同じだった。
そんな打算で、認めてもらえない悔しさを紛らわす。案の定、シロは「痛いって」とは苦情を言ったものの、その行為自体を責めるようなことはしなかった。
怒られなくて嬉しいはずなのに、怒ってくれたらいいのにと思う。いっそ、お前など番いにしたくないと言われた方がマシだ。
求愛して、それを断られるのならばまだしも気持ちのやりようもあるが、求愛行動だとさえ認めてもらえないユキの気持ちは、やり場を失ったままぐるぐるぐるぐるとわだかまる。ただどうしようもない執着心だけが一人でに肥大していった。