top of page

■ 夢見る頃を過ぎても 3

 ユキはいつかきっと、こことは違うもっと大きな世界に行く。そこで皆に受け入れられて、皆がユキを大好きになって、ユキを求めてユキを必要とするようになる。──それがシロのいつもの主張だった。それはシロにとっては予想というより、確実に来る未来ともいうべき一つの確信らしく、決してそれを翻さない。そしてその時、ユキの隣にいるのは自分ではないのだと。
 そう主張するシロを説得するには、シロの言う“広く大きな世界”で、シロの言うような“大人”になるしかなかった。しかしそれは決して簡単なことではない。大人になったと思ってそう主張したところでシロがそう認めてくれなければ意味がないし、広く大きな世界と言っても、高々8歳のユキが行ける広く大きな世界など知れている。

 悩み悩んだ末にユキが導き出した結論は、首都の学校に行くことだった。シロとユキの地元から列車に揺られて5時間という、決して近くはないそこは、ユキにとっては見たこともない“広く大きな世界”。そしてそれは、この地元から出たことのないシロにとっても同じはずだった。
 そこで、色々なものを見聞きして学び、シロの知らないことをいっぱい知って、知識を身につけた大人になればシロはきっとユキのことを認めてくれる。そう期待した。
 だからその翌年、ユキは首都のエリート校への転入試験を受けたのだ。シロへ知らせず受けたのは、それを突然知らせたらシロも少しくらいは動揺してくれるかと思ったから。だが予想に反してシロはそれを喜び、賞賛を送り、栄誉を讃え、是非行くべきだと勧めた。引き止めてくれることを期待したわけではなかったが、ユキにとっては断腸の思いで決めた苦渋の決断を、あっさりと喜ばれるとそれはそれでつらいものがある。
 夢と野望とわずかな切なさを抱いて、ユキは9歳になる年、単身首都へと旅立った。

   +++

 首都は、さすが世界に名だたる大国の心柱だけあって、ちっぽけな片田舎とは何もかもが違った。
 街に出ればありとあらゆるものがそこにある。参考書一つ、端末一つをとっても様々な種類があってどれがどう違うのかわからない。学内のことにしても専攻は多岐に渡っており、ある一つを選んでも、そこからさらに学ぶ先生を選べる環境には喜ぶよりも困惑した。学内に併設されている寮にも様々な機材が設置されていて、使い方もわからなければそもそも何のための機材なのかすらわからない。与えられた寮の個室はシロの家のリビングより広く、その空間を何で埋めたらいいのかわからなかった。
 けれどユキが編入した学校である、学術機関プラエスタト附属校“レーギア”は編入生を随時受け付けてるため、生徒たちも先生たちも、そんな編入生の戸惑いには慣れ切っており、戸惑っているのを見ると聞く前に親切に教えてくれる。慣れてしまえば新天地はそれなりに楽しかった。

 地元でずば抜けて優秀だったユキは国内随一の学力を誇るレーギアでもそこそこ優秀な方だったが、それはユキの頭脳がどこでも通用するほどに明晰だったからというよりは、そもそもの価値観からして異なっていたからという方が正しい。ユキは編入試験における全教科で高得点を叩き出したために編入を認められた口だったが、そのような“頭脳派”以外にも、ある一つの技量において類稀な能力を示したことにより首都へと招かれる“特別生”も多い。
 獣種による適性を尊重するというレース・プーブリカ共和国の立場を体現しているのが学術機関プラエスタトであり、そしてその附属学校レーギアにおける“専攻”意識だった。
 生徒の中には、教員よりその専攻に通じているものもいる。ゆえにレーギアでは、学生から教員に至るまで全ての者が皆平等であり、互いに学び教えあうという理念に貫かれている。授業も、教員が教えるという一方通行ではなく、学生一人一人の意見が多く求められた。そしてそのたび必ず、“なぜ”が問われる。“なぜそう考えるのか”、“その根拠は”。“そう考える君の理念は”、“人生は、何を目指しどこへ向かうつもりなのか”。
 明確な意志と目的を持って生きること、そして何のためにここにいるのか、何を為すのか、そしてそれにはどんな意味があるのか、それを常に考えさせられ続け求められ続ける。だから自然とレーギアには、真っ直ぐに前だけを見つめ続ける力のある者しか残らない。地元のあの町に蔓延っていたいじめの類いなど、そもそも存在すらしなかった。

 そんな、考えようによってはこれ以上ないほどに苛酷な環境は、だがユキには意外と合っていた。それまで、シロの歓心を買うことだけが行動指針の全てであったユキのやり方では通用しないことも多かったが、それでも常にその意味を問いながら生きるのは楽しかった。ユキはもっと大きく広い世界を知らなければならないと言ったシロの言葉の正しさも一面的には認めざるを得ない。けれどそれでも、ユキにはシロほどに大切な存在というのはできなかったから、そこだけはシロの言葉と違った。
 友達もできた。信頼できるひともいる。好意を寄せてくれるひともいたけれど、でもそれは、あくまで多様な価値観と認識の一つとして“そういうひともいる”というだけの話であって、決して唯一無二ではなかった。
 ユキの中で唯一にして絶対の存在なのはいつまで経ってもシロだけで、だから実は、考えることは楽しくとも、ユキ自身の存在意義についてはいくら考えても結論はいつも同じ。最終的にユキの生きる意味はいつもシロにたどり着いた。
 シロ以外に生きる意味が見つからない。ゆえに首都で暮らして4年が経つ頃、ユキは地元に帰ろうかと悩み始めていた。
 当初の目的であった、“大人”になれたという自信はない。けれど、広い世界を知ってもユキにとってシロがかけがえのない存在であることは変わらなかったし、そうである以上、レーギアに留まる意味もない。ならば地元に帰ってシロのそばで暮らすべきなのではないか。そんなことを考えていた。

「えー。レーギア、辞めちゃうの?」

 そんな話をざっくりと大雑把に話したユキにそう言ってくれたのは、ユキがレーギアに来た時に一番最初に話しかけてくれたひとで、そして今は友人でもあるアヒルのアカだった。
 自称芸術家の彼女はいつでも変てこりんな格好をして変てこりんなものを創っているが、その創作姿勢はたぶんこれまで一度もブレたことがない。彼女の脳内を理解できたことは一度もなく、また理解できる日が今後来るとも思えなかったが、それでも自分の創作意欲に対して真摯でその意義を見失わない彼女を尊敬してもいた。だからユキは、辞める前に彼女にだけは話をしておこうと思ったのだ。たぶん、「そっか、残念だけどそれなら仕方ないね」とあっさり言うと思って。
 だが予想に反して彼女は、惜しむような反応を見せた。予想が外れたなと思ったけれど、そもそも彼女がユキの予想通りだったことなどこれまでほとんどなかったから、そのこと自体はさして気にしない。ただ、なぜそんなことを言うのかだけは気になった。

「だってユキ君はレーギアが合わないってわけじゃないのに、いる意味が見つからないからって辞めるんでしょ?ここの雰囲気が合わなくて、ここにいると本領を発揮できないっていうなら辞めた方がいいと思うけど。でも合ってるなら、意味の方を探せばいいじゃない?」

 彼女の論理は明快でわかりやすい。けれど、ユキにとって何より重要なのはシロなのだという、その一点への認識が欠けている。

「一般的感覚としては、それが正しいだろうね。でも俺にとっては、あのひとのことがすごく大事だから」

 そう言うとアカは首をこてんと傾けて「うーん」と唸った。そしてアヒルらしく口を尖らせる。

「ここで過ごすことは、ユキ君とそのひとにとっても無駄ではないと思うんだけどね……」

 座ったベンチで足をぶらぶらと揺らしてから、勢いをつけて飛び降りる。

「まあでも決めるのはユキ君自身だしね。出立日決まったら教えて。みんなに声かけて送別会しよう」

「えー。いいよそんなの。面倒くさい」

「だーめー。主役は拒否できません!」

 先生のように人差し指を立ててアカはそう言って、それからひらひらと手を振って、二人で腰掛けていた中庭のベンチから立ち去った。
 アヒル特有のぴょこんと跳ねた尻が左右に揺れるのを眺めながら、レーギアを去る日について考える。この学校を辞めて地元に帰るというのは考えても何だか実感がわかなくて、曖昧でふわふわとしている。

「そうだ、シロさんにも言わなきゃ……」

 首都に来てからも割と頻繁にメールや電話で連絡を取りこっちの状況を伝えてきたが、このところ学年末の考査があったために少し連絡を取っていなかった。考査が終わったよと言って連絡を取って、帰ろうと思う旨を話すのがいいかもしれない。そんな算段を付ける。
 シロは、レーギアの話も首都の話も嬉しそうに聞いてくれて、いつも最後には「思い切って決断してよかったね」と言ってくれたが、ユキがそのレーギアを辞めると言ったら残念がるだろうか。
 もったいない、とは言うかもしれない。アカと同じように。けれどダメとは言わないだろう。
 4年経った最近でこそ言わなくなったが、最初のうちシロは電話をするたびいつも「いつでも帰ってきていいからね」「ユキの荷物もちゃんと取ってあるし、ユキの部屋もそのままにしてあるから」と言ってくれていた。シロの傍らにユキの居場所を残しておいてくれていることは嬉しかったが、しかしこれまで帰省したことは一度もない。
 その理由としては、レーギアの、引いてはその上部機関である学術機関プラエスタトの規定が、機関の機密の一部を知り得る立場である学生の首都外への外出に大きな規制をかけているというのがある。けれどそんなのは、申請をすればいいだけの話で大した問題じゃない。ユキが帰省しなかった最大の理由は、これまではシロのいう“大人”になるまで帰らないと固く決めていたからだった。
 だからこれまで帰ったことはなかったけれど、そんなことを言っていたシロだからきっと、ユキが帰りたいと言えばダメだとは言わないはず。

 ──今晩あたり、電話してその話をしよう……。

 その時ユキは、そう決めていた。

 だがその日の晩、結局ユキはレーギアを辞めたいという話をシロにすることはできなかった。それどころか、今まで一度も取ったことのない帰省申請をして学長に直談判までして、翌日の朝には財布一つを持って首都から地元に向かう列車に飛び乗った。
 この4年間、その可能性はずっと頭の隅にあったにも関わらず、直視しないようにしてきたこと。それがとうとうユキを襲った瞬間だった。

​□■ ← ・ → ■□

bottom of page