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■ 夢見る頃を過ぎても 6

「……ッ、……!」

 声なく痛みにもがく少年の顔を覗き込む。だが彼はギラギラとした憎悪をその目に漲らせたままで、覗き込むトキを睨めつける。引きずり倒され骨を折られてもなお殺意を向けるその執念にゾッとした。
 油断なく押さえ込んだままで、トキは改めてその少年の顔をまじまじと見る。殺意を滾らせる瞳の奥に深い海のような藍を確認して、先ほどから可能性として浮かんでいた懸念に確信を抱いた。

「お前………もしかして、“ユキ”か」

 まさかトキが自分を知っているとは思わなかったのだろう、ビクンと身体を震わせる。その人間らしいあからさまな反応に、トキはわずかに安堵を覚えた。

「シロがいつも言ってる。“ユキ”は“すごく頭がよくて”、“可愛くて” “綺麗”なんだってな」

 シロをたどる言葉の一つ一つに唇を震わせる。先ほどまでその小さな身体に漲っていた殺意は成りを潜め、深い陰がその瞳を揺らした。
 トキはユキを知らない。だが、シロが心底可愛がっているという“シロのトラ猫”のことはよく知っている。シロはいつも、その“世界で一番綺麗で可愛くて賢い”サバトラの子猫が、その真価を認めようとしないものによっていじめられたという話をトキに話して聞かせるからだ。

 ──だから、狭い田舎なんか出て、広く大きな世界に行くべきだと思ったんだよ。そうすれば、ユキはきっとすぐに認められて理解される。

 だからユキが選抜試験に受かり、シロの元を離れて首都へ行くことになった時、それを心の底から喜んだのだとシロは言う。幼いユキの目の映るシロが、この町が、ユキの全てだと思って欲しくなかったから。ユキの味方はシロ以外にもいる。そしてユキの世界はもっと広く大きく、色鮮やかで多彩なもののはず。そうであって欲しいとシロが願ったから。──だがその結果がこれだ。

「なんでこんなとこにいるんだよ。首都の学校に行ってるんじゃねぇのかよ」

 シロの話では、“ユキ”は首都のエリート校にいて、“もう何年も帰って来ていない”。その情報に反して目の前に存在している少年にそれを問うと、目を上げた“ユキ”は再びその瞳に憎しみを湛えてトキをねめ付けた。

「あんたが……!あんたさえいなきゃ、俺は、……ッ……!!」

 怒鳴る言葉はすぐに行き先を失って途切れる。地面に叩きつけられたままの少年は、喚いて叫んで地団駄を踏みたいのにその方法を奪われたかのように、息を切らして言葉を途切らせた。
 ギリッと唇を噛み締めてトキを睨みつける少年はその目ばかりが大人顔負けで、なのにその身体は彼の意図に反して子どものまま。その落差がトキの目には酷く脆そうに見えた。
 その目にギラギラと宿る思いは、無邪気さのカケラもない執念と執着。

「……シロを、取り返しに来たってわけか」

 どこでどう知ったか知らないが、シロがトキに心を許したのを知ってここに戻ってきたのだろう。トキを本当に殺すつもりだったのかまではわからないが、シロを取り戻すためならば死んでしまっても構わない──そう考えたであろうことは、先程の殺気からも明らかだ。

「シロさんを、返せ」

 ギリギリと歯を食いしばって、真っ青な瞳がトキを睨む。
 獣の咆哮と寸分違わぬ唸り声をあげて、ユキは殺意と憎悪を滾らせた。

「あのひとの隣は、俺のものだ。誰にも渡さない。シロさんを、俺に返せ」

 腕を折られ地に沈められているというのに、なおもその小さな身に殺気を燃え上がらせる。首だけになっても噛み付いてきそうなその執念に、さすがのトキも空恐ろしさを覚えた。
 けれどそんなものは露ほども感じていないような顔をして虚勢を張る。平穏とは程遠い人生を送ってきたせいで、ハッタリなら呼吸をするようにかませた。

「んで?シロを取り戻してどうする。そんなことしたって、シロの気持ちはもうお前には戻らねぇよ」

「そんなはずないっ……!あんたさえ、あんたさえいなきゃシロさんは、俺のことを……っ!!」

 叫んで今にも噛みつこうとするユキを渾身の力で押さえつける。わざとその顔を覗き込んで、その鼻先でニヤリと笑ってやった。

「そんなはずあるさ。シロはお前のことを信じてる。お前という人間の価値も、可能性も、お前が感じている以上にな。……その信頼を裏切ったお前が、あいつに今まで通り大切にされることを望むのか」

 問いかけるトキに、ユキは一瞬怪訝な顔をする。

「お前は、首都で“色んなものを見聞きして” “学んで” “大人になる”ことを、あいつに約束したんじゃなかったのか?」

「………っ…」

 息を詰まらせて肩を震わせる小さな背中に、トキは淡々と言葉を紡ぐ。その言い聞かせるような色を帯びた言葉が、ユキに染み込む時間を待ちつつ。

「お前をいじめたような奴らとは違う、“大人”になるんだって、あいつに言ったんだろう?それがどうだ、今のお前は、自分の気に入らないことは嫌だ嫌だと駄々をこねてるガキと同じじゃねぇか」

 うなだれたユキが力なく視線を落とす。その顔を上げさせて、その目の奥の深淵を覗き込む。悔しさを滲ませるユキの目は、それに対してわずかに震えた。

「なぁユキ。あいつはお前を信じてる。内面の人間性も外見の容貌も、誰にも劣らない……いや、誰にも真似できないような立派な人間になるって信じてる。それはお前のためだけじゃない。あいつの喧嘩でもあるんだよ。あいつはお前に全部賭けたんだ。お前の価値がわからないこの町の奴らは間違ってる、今に目に物見せてやるから目を見開いて見てろってな。そしてお前もそれを請け負った。……なのに、その喧嘩にむざむざと負けんのは、裏切り以外の何物でもねぇだろ」

 唇を震わせたユキは、再び地面に視線を落とした。ぽたり、ぽたりと涙が落ちるのを見てトキはようやく腕の拘束を解く。折られた腕の痛みに顔をしかめることさえせずに、ユキはただうずくまった。
 その背中にはトキに諭された悔しさと、トキを殺せない、殺してもシロが戻らないことへの絶望が垣間見えた。それに大きくため息をついて、トキはユキの横にしゃがみ込む。

「首都に戻れ。目と耳をかっぽじって、ありとあらゆるものを吸収しろ。それでもまた余力があるってんなら、その賢いおつむを働かせろ。……シロのことだって、どうしても欲しいんなら、どうすりゃいいかその頭で考えな」

 その言葉にユキは俯いていた顔をゆっくりと上げる。涙に濡れているかと思われた瞳は、それとは異なる光を放ってキラリと瞬いた。ずば抜けて優秀な頭脳を持っているらしいユキは、先ほどまでとはまた違った剣呑な光を帯びてトキを真正面から見つめ返した。

「………………いつか、絶対あんたからシロさんを取り戻してみせる……」

 低く地を這うような声に、またゾクリとトキの背筋に冷たいものが走る。

「やれるもんならやってみな」

 一体どんな手に出るのか楽しみにしていてやると一つ笑って、その場を後にする。
 ディーノに待たせておいたシロを家に帰らせてから、再びその場を訪れたが、その時にはもうユキの姿はそこにはなかった。それだけじゃなく、この町のどこを探してもユキの姿はおろか、その痕跡さえも見つからない。
 まるで夢か幻のように、紺碧の瞳の少年は消えていた。

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