■ 聞こえない声に、耳を澄ませて 4
シロのためにわざわざ呼び出されてくれたのは、穏やかそうな目をした初老の女性だった。山羊の獣人である彼女は、シロを見ると白髪の中から覗いている耳をぴこんと立てる。
「では、そこの診療台の上に乗ってくださいね」
「は、はい……」
ユキが相手ならば嫌だ嫌だと駄々もこねられたが、優しげな彼女を困らせるのも気が引けて、シロは重い足を動かしてもそもそと診療台の上によじ登る。するとユキがシロの側に来て、何を思ったか神妙な顔でシロの手をぎゅっと握った。
「握らなくていいよ!」
ぺしっと叩くと、途端にユキは口を尖らせる。
「不安そうだから、安心させようと思ったのに……」
これが命に関わるような事態ならばその心遣いはありがたいが、事情が事情なだけに恥ずかしい。つん、と横を向くとユキは露骨に落ち込んだ顔をした。
「では患部を見せてもらえますか?」
「う。……は、はい……」
下手な羞恥プレイよりよっぽど恥ずかしいよと思いながらズボンを脱いで下着も脱ぐ。シャツの裾を引っ張って出来る限りを隠しながら脚を開こうと前を向くと、シロの脚の間を覗き込む彼女の横でユキも身をかがめていた。
「覗くな!」
すぱん、といい音がする勢いでユキの頭頂部を叩くと、ユキはまた拗ねたような目をする。
「なんだよその目!」
「だってシロさんが……」
「だってじゃないよ!覗くのが悪いんだろ!?」
「俺のせいだって責めるから、責任取るためにもきちんと病状を把握しようとしただけなのに……」
「責任を感じてるなら、先生の邪魔しないでおとなしくしてなさい!」
スピーディな診察を妨げているのは覗こうとしたユキなのか、それにいちいち噛み付くシロなのか、そこの問題は棚上げをして、幼い頃のユキを叱ったのと同じ口調で言うと、ユキは渋々ながらようやくおとなしく付き添い用の椅子に座る。
正面を向くと、目の前の山羊のおばあちゃんと目があった。穏やかさを繕いながらも目が笑っている。犬も食わないやつにしか見えないんだろうな……と、改めて今の自分たちのやり取りを思い起こして恥ずかしさを感じながら、それを振り切るようにシロは威勢良くえいやっと脚を開いた。
結論から言えば、かゆみは薬剤にかぶれたせいだった。そうだろうと思ってた、知ってた、と思いながら薬局でかゆみ止めと塗り薬を受け取る。
「シロさんって肌弱かったんだね。知らなかったな……」
山野を駆け回る健康優良児だったシロだが、実は有機化合物や溶剤には弱い。自然の樹液やオイル、樹脂そのものなら平気なのだか、加水分解されることによってかぶれてしまうのだ。
けれど技術立国たるレース・プーブリカには身の周りにそれらはありふれている。故に幼い頃は何気なく触ってかぶれてしまうことも多くあったのだが、段々とそれには触れてはいけないのだということがわかってきて、ユキと出会う頃にはもう有機化合物の類いには触れないようにしていた。ユキが知らないのも無理はない。
だから、ユキのせいだと言いはしたが、原材料を確認しなかった自分が悪いのだとシロもわかっている。ローションの類いは水分を溶剤で伸ばしてあるに決まっているといえば決まっていた。
「………ユキ」
寝ているところを叩き起こされて、病院に来てみれば女医さんじゃなきゃだめだ何だと言われ、挙げ句の果てに慣れてるなんて言われたものだからつい反発心が芽生えたが、あれを選んだのは他ならぬ自分だし、そしてユキは、昨夜かゆいかゆいとシロが騒いだことを重く受け止めてくれて心配してくれたのだとわかっている。
……その割に、かゆいと騒いだ時に情け容赦なく突っ込まれたけれど。でもまあそのお陰でその後は安眠できたので、結果としては悪くない。
つんつん、と袖を引っ張ると、ユキは、怒られる前の子どものような顔をしてシロのことを見つめた。
「……なぁに、シロさん」
おとなびた顔の奥に、不安げな顔が見え隠れする。
トラ猫だと思っていたのがホワイトタイガーになって、子どもだと思っていたのがおとなになったけれども、結局のところユキは根本的にはシロのよく知るユキのままなのだ。シロさんシロさんと言っていつも後ろをついて回っていたあの頃と何ら変わらない。
──シロさん、あそぼう
そう言って遊びをねだるとき、いつもユキは両手いっぱいにおもちゃを抱えてやって来た。ユキ自身は本当は、ボール遊びでもごっこ遊びでも、隠れんぼでも追いかけっこでも何でもよくて、ただシロの興味を引きたいためだけに持っている限りのおもちゃを抱えてくる。要はシロに構って欲しいだけなのだ。
そうして、遊んでいてシロが転んだり怪我をしたりすると、いつもシロ以上に大騒ぎをするのだ。
──ああ、何にも変わってないな……。
おとなになって感情を隠すのがうまくなっても、根本的には何も変わってない。ユキは、シロの可愛いトラ猫のままだ。
ふっと破顔したシロに、ユキはより不安そうな顔をする。
「ゆき」
呼び寄せて、頭に手を伸ばして丸い耳をくにくにと揉むと、ユキはぴくぴくとしっぽを震わせてその感覚に耐えた。そんな様が可愛くてたまらない。
「帰ったらご飯にしよう。下拵えは、もうしてあるから」
ユキは、遊んで欲しいと訴えた他には何もねだらなかったが、記念日を大切にしているらしい彼にちょっと豪華なディナーを食べさせてやろうと思って、すでに支度はしてある。そう話すと、ユキのしっぽは嬉しげにぱたりと揺れた。ゆらゆらと揺らしながら、それでもまだシロの方を窺う。
何だろうと首を傾げるシロの耳に、少ししてからとてもとても小さな、「ごめんね」が聞こえた。
「かゆい思いさせて、………ごめん」
今にも消え入りそうな声だったが、シロの耳には確かに届いた。
「俺が選んだんだし」
なるべく、けろりとして聞こえるように意識して言う。カラリと陽気な声が出たことを願いながら、ユキの方に手を差し出した。
「ね、帰ろ」
普段は手を繋ぐことなどほとんどないが、今日ぐらいはいいかと思う。だって記念日だし、と考えたところで、そうか、ユキが記念日を大切にするのはそういうことかと合点がいった。常に構って欲しいと訴えている彼にとっては、実に便利な口実なのだ、記念日というのは。
ならもういいじゃないかとシロは思う。こっちも記念日という口実を使って、思う存分甘やかしてやる。構って構って構い倒して、もういらないと言われるまで。
差し出されたシロの手をそっと握ったユキは、シロの方を少し見て実に嬉しそうな顔をした。
+++
その夜。かゆみ止めを飲んで、塗り薬を塗布して貰ったシロがすやすやと眠っている寝室の、隣の部屋でユキはじっと端末を見つめていた。
ユキとシロの家の二階には三つ部屋がある。一つは二匹の寝室、そしてそれを真ん中に挟んで北がユキの部屋、南がシロの部屋。そのうちの北側、すなわち大量の電子データと紙焼き資料がある方の部屋で、ユキは無言で画面を見つめる。
細字の説明書きに一つ一つ目を通しているが、そこに記載されているのはリーネア・レクタ関連の情報でもなければ軍部の機密情報でも何でもない。肌色の広告が多く表示された──それは、アダルトグッズの通販サイトだった。
今回、シロの肌がかぶれてしまったのはユキとしても不本意な結果であった。しかし媚薬効果とその結果については大変満足したし、その後、かゆいかゆいと騒いで助けを求めて縋り付いてくるシロも大変可愛かった。
だから、反省はしているが後悔はしていない。──のみならず、溶剤を使用していないものがあれば購入して、再度シロを媚薬漬けにしようと企んでいた。前に使ったローション風呂は平気だったのだから、媚薬効果のある薬剤を溶剤で伸ばしてあるのが問題なのだろう。ならば自然オイルなどを使って潤滑性と保湿性を確保しているものがあれば、と検索に検索を重ねているのだった。
「もういっそ、自分で調合した方が早いか……?」
エリート校在学時代は化学も問題なく優秀だったユキである。市販のものを一つ一つ成分を確かめるくらいなら……、と思い始めたところでようやく念願通りの商品にたどり着けた。
「……」
無言で紹介ページを端から端まで読む。そこから薬品会社のサイトに飛んで他の製品の成分を確認し、工場内で他製品の成分が微量に混入する可能性を考える。さらに会社の登録資本金、不動産登記簿、収益構造まで調べ上げ、問題がないことを確認した上で購入を決定した。
ぽち、と押して一つ頷く。口許に満足げな笑みが浮かんだ。
届いたら早速シロの前で、箱いっぱい買い込んだアダルトグッズの中に入れようと決める。新たに買い足したことを知ったシロが顔を赤くして怒るのを想像して、ユキは小さくほくそ笑む。
シロは何だかんだ言ってユキには甘い。最後にはいつもユキのわがままを受け入れる。これだって、シロがかぶれないものを一生懸命探し出して買ったんだと訴えれば、無碍にできなくて眉を下げるだろうことが簡単に想像できる。そんな、甘っちょろいシロがユキは愛おしくてたまらない。だからつい時々、シロが嫌がるようなことを思いついてはシロを泣き落として楽しんでしまう。シロがユキに甘いことを確認することはすなわち、ユキに自分は愛されている、許されているという実感を与えてくれることでもあった。
ユキは自分が、シロが思っているほどにはシロのために生きていないのを知っている。シロのためを考えて、シロの望む通りにして、シロの意思を尊重する──それがユキだと思わせているけれど、実はそう見せかけている裏側で結構好き勝手している自覚がある。それでも、シロはユキのことを優しいと言う。強制しているように見えないようにシロに強制していることも多くあるし、シロの選択を重んじるようなふりをして、それしか選べないように仕向けていることも多くあるのに、シロはユキのことを思いやりがあると言う。
ユキ自身は自分を優しいなんてちっとも思わないけれど、シロにそう言われるのはこそばゆく、また嬉しい。優しいユキをシロが望んでくれるならば、優しい自分でありたいとも思う。
シロがいつまでも好きでいてくれるような、自分でありたい。そう願う思いが、ユキに優しさと思いやりを与えていることを当の本人の、シロは知らない。
聞こえない声に、耳を澄ませて <完>