top of page

■ 愛してるって言って 2

 それとちょうど同じ頃。リストランテ・ディーノではちょっとした揉め事が起きていた。

「お引き取りください!」

「だーかーらー、こっちは客なんだって」

「今はまだ準備中だって言ってるでしょうが!」

「わかってるって。でも腹減ってんだよ」

「また後で来てください!」

「それができりゃ、そうしてるっての」

 ガタガタと扉を鳴らして、外と中で押し問答を繰り返している。

 ──戸が壊れるって……。

 二階から降りてきたシロは、外れたらどうするんだと一つため息をついて、戸を押さえているクロごと取っ手を引っ張った。

「うゎっ」

「んぎゃっ」

 べちゃり、と音を立てて二匹が積み重なるようにして床に倒れこむ。

「いってぇ……」

 先に起き上がったのは、戸の外にいたと思しい明るい金髪の男だった。座り込んで周りを見回した黒い瞳がギラリとシロを捉え、そして目を細める。

「なああんた、ここの店主?なら飯食わせてくれよ。腹減ってんだ」

 笑みを形作りながらも目は全く笑っていない。

 ──手負いの獣だな……。

 隙あらばこっちの喉笛に噛み付いてやろうという殺気がだだ漏れだ。陸軍所属の猛獣と同じ、だけど野良ライオンの方がよっぽどたちが悪い。
 起き上がると同時に飛びのいて、距離をとったクロを視界に収めつつ、シロは肩を竦めた。

「さっきうちの従業員が言ってたように、まだ準備中なんだ。だから大したものはできないけど、それでよければ」

 そう返すと、一転して野獣の顔に本物の笑みがこぼれる。

「食えりゃなんでもいい」

 その嬉しそうな表情に苦笑が漏れる。
 トキと働いている時もそうだった。手に負えないような凶悪な奴が、餌を与えるだけで大人しくなる。その変わり様に目を白黒させたシロに、トキは実に端的に説明した。曰く、『獣ってのは本能に忠実なんだ』 と。その本能をうまく制御してやれば猛獣を意のままに扱うことすら難しくないと言った、トキほどにはシロはうまく客をあしらえないけれど、たまにこんな珍客が来ると改めて感じる。獣は本能──特に胃袋に忠実だ、と。
 ユキさんにまた怒られますよ、と苦言を呈するクロに苦笑いを返す。
 獣に餌を与えるべくシロは厨房に入り、さて、と簡単に周りを見回した。

   +++

「シロさん、あれ絶対密入国者ですよ」

 そう訴えてくるクロに、「だろうなあ」と答えつつ、肉のうちで筋張っている部位をポイポイと鍋に放り込む。
 あの手の手合いは肉を与えておけばいいものと相場が決まっている。しかも顎の力も強いから、柔らかい最上級の部位を与える必要なんてない。どうせ無銭飲食に違いないと思ったシロは、客に出せない固い部位を圧力鍋で煮ることにした。そこそこ柔らかくなったところで赤ワインで風味付けをして、大量のマッシュポテトを添えて出来上がり。
 普段客に出している料理からすれば、料理とも呼べぬほどに簡単に作ったそれを、だが男は目を輝かせて見つめる。その後、実にうまそうにガツガツと食べるに及んで、シロはそんなに飢えていたのかと僅かばかりの同情を寄せた。

「なああんた。なんでそんなに腹空かせてんだよ?」

 もう少しすれば、営業を始める店も出てくる。ランチタイムになるまで営業を始めないディーノに無理矢理押し入るなんて真似をしなくたっていいはず。そうしなければならないほど切羽詰まるなんて、数日間ほとんど何も食べていなかったとしか思えない。
 だがその問いに男は、顔を上げてちらりとシロの様子を窺う。それから椅子に腰をかけ直して、にこりと人好きのする笑みを浮かべた。

「あんたの料理を食べるために、わざわざ首都まで来たんだよ。だからさ、腹が減ったら開店まで待てなくなって」

「…………俺の……?」

 自分の料理を食べるために来たという言葉を嬉しいと感じる一方で、シロはその言葉に違和感を感じる。
 シロは決して遠方から客がやって来るような著名な料理人ではない。もちろん食べた客はおいしいと言ってくれるし、だからこそ店を維持していられるのだが、そこには立地という条件もまた大きく左右しているという自覚があった。
 シロのリストランテ・ディーノは、首都の大通りから一本入った小道沿い。区画としては、官公庁並ぶ区画と住宅街が並ぶ区画のちょうど真ん中にあって、どちらからも近い。そして、店の規模も大きすぎず、かと言って極端に小さいわけでもなく、いい意味で小ぢんまりとしていた。そして、首都でこだわりの食材を仕入れる困難も反映してそれなりの金額を請求する。高すぎはしないが、べらぼうに安くもない。毎日の食事には、適度に近く、適度に混み過ぎていなくて、適度においしく高すぎないというのが大切なのだと思っているからだ。
 もしもリストランテ・ディーノが大層不便なところに移転でもしたら、今来てくれている客のうちのどれだけがまた足を運んでくれるかはわからない。または、大衆向けの店となって大変な混雑をするようになったら。それでも、並んででも来たいと思ってくれるだろうか。
 オーナーシェフとして経営にも携わる身であるから、シロは自分の腕に過剰な自信を抱いてはいなかった。だからこそ男の言葉に疑念を覚える。遠方からわざわざシロの料理を食べに来たというのが。
 喜ぶよりむしろ不審感を丸出しにしたシロに、男の方が逆に驚いたような顔をする。

「あー……っと……」

 適当な言葉で誤魔化すはずがかえって墓穴を掘ったといった様子で、ボリボリと頭を掻いた後、少し申し訳なさそうな顔をしてシロを見た。

「……実はさ、前通ったらスパイスのすげぇいい匂いしてたもんだから」

「あぁ……」

 開店準備のために、スパイスシードを潰していた調理場をちらりと振り返る。それを使った料理を出さなかったのは悪かっただろうかと思ったシロの心中など知らず、ライオンは少し顔を歪めて話し始めた。

「昔さあ、住んでたとこの近くにいっつもそういう匂いさせてた店があったんだよ。匂い嗅ぐだけでもすげぇうまそうでさ。でも飯なんて満足に食わせても貰えねぇのに店でなんて食えるはずもなかったから、よだれ垂らしてただけなんだけど。ここの前、通りかかった時にそれ思い出して」

 男は静かに、だが片頬を歪めながら淡々と語った。

「所詮俺なんて、どんなに頑張ったって使い捨てにされて終わりなのはわかってる。けど、腹減ってんのに飯も食えねえなんてあの頃と同じじゃねぇかと思ったら無性に腹が立って」

 そう言って男は眉を下げて、情けなさそうな顔でシロを見た。

「だから最初は、食ったらすぐ逃げるつもりだった。……悪い。金は、持ってねぇんだ」

 持ち合わせがない。それを、申し訳なさそうというよりも悔しそうに言う男を責める気にはなれなかった。男に出す料理を作り始めたシロに呆れて、二階に行ってしまったクロに言ったらさらに呆れられること間違いなしだけれど。

「明日も来なよ」

 シロの口からポンとそんな言葉が飛び出す。

「……え?」

「あのスパイスを効かせた料理、作ってやるからさ。あ、でも他の客がいる時だとまずいから、今日みたいな営業時間前だと助かる」

「で、でも俺、金持ってないんだって……」

「わかってるって」

 ユキさんに怒られますよ、という心の中で響くクロの声を意図的に無視して、シロはライオンに笑いかけた。

「俺の奢り。ありがたく食え」

 シロは料理人だ。獣種が何であろうと、地位がどれほど高かろうと低かろうと関係ない。飢えているものに食べさせる。それが仕事だから。
 “ありがたがって食え”、そう言ったトキの言葉をあえてなぞる。目を見開くライオンに、にっと笑ってから開店準備をすべく彼に背を向けた。

「なぁ、あんた……!」

 その背中にライオンが呼びかける。振り向いたシロに、椅子から立ち上がった彼は真っ直ぐな視線を向けて来た。

「俺はヒナ。あんたの、名前は?」

 まさに雛鳥のような明るい金色のライオンは、そう言ってシロにわずかに笑って見せた。

​□■ ← ・ → ■□

bottom of page