■ 愛してるって言って 10
「シロさん」
呼びかけたアオの声に、シロが振り向く。かすかに微笑んだ、その顔はすっかり痩せてしまって、集中治療室の窓ガラスに置かれた手の指も恐ろしいほどに細かった。
「いつもありがとね、アオ」
笑ったシロが痛々しくて、直視していられず小さく頷く。そんなアオを見つめてから、シロはアオが来る前と同じようにガラスの向こうのユキをじっと見つめた。
「シロさん、ちゃんとご飯食べてます?」
言っても詮無いことと思いつつ口にしたアオに、シロはわずかに口元を緩める。
「うん……食べてるよ」
それが嘘だということもわかっている。シロは、ユキを見守るためにここに詰めている一方で、この病院で頻繁に薬剤の投与を受けている。食べものが喉を通らなくなってしまった今のシロの命を繋いでいるのは、彼が仕事とし誇りにしてきたはずの色鮮やかで多彩な料理ではなく、無味乾燥とした栄養価だけを詰め込んだ薬だった。
「そんなんだと、後でユキさんに怒られますよ?」
ユキはいつも、シロが危険な行動をするたびに首根っこを捕まえて連れ戻し、正座をさせて説教をしていたのだと聞いている。冷たいタイルの上に直に正座させられて、叱られるシロの話を幾度となくクロから聞いた。そんな話をすると、強張っていたシロの顔がようやく弛む。
「うん……うん、そうだね……」
笑った目尻から涙がこぼれた。透明な雫は、シロの白い頬をつたって顎から床へとぱたぱたと落ちる。次から次に落ちて止まらないその涙は、シロの内に巣食う苦しみを表しているようにも思われた。
「たまには料理もしないと」
「うん……」
「ユキさん起きたら、食べさせるんでしょ?」
「……ん、」
「腕が鈍ってたらバレますよ、絶対」
「うん」
俯いて涙を流すシロの手が震えていた。
「ありがとね、アオ……。ありがと……っ、……」
嗚咽を噛みしめながら、何度も何度も礼を言うシロに黙ってかぶりを振る。視線の先では、シロの命を繋いでいる薬剤と同じものがユキに繋がり、ユキの命を繋いでいた。
料理人を番いとしていたら致し方ないことなのかもしれないが、ユキは食へのこだわりが強く、アオがよく行くような大衆的な店の料理は決して口にしなかった。化学肥料や餌料を使っていないこだわりの食材を使った店のものしか食べない。料理人本人の質や人間性にもうるさくて、低俗な人間の作ったものは食べたくないとよく言っていた。そんなユキに強制的に流し込まれているのは、ユキが最も嫌った化学薬品で、生産者の顔すら見えない代物。
「ありがと……」
呟くシロの小さな声が耳を打つ。震えるその声に、アオも何度も首を横に振る。
そのさらに一ヶ月後。
ユキはようやく目を覚ました。検査の結果、脳波や機能自体に異常はなく、身体能力にも問題が認められなかったため、早々に退院の許可が下りる見込みとなった。
しかし一番の問題は、恐れていた通りにユキは一切合切の記憶を失っていて、シロのことは勿論、クロのこともアオのことも、リーネア・レクタのことも自分自身のさえも全く思い出すことができなかったということ。
日常生活を送りながら様子を見ようということに決まってからもユキが記憶を取り戻す気配はなく、これは記憶が沈んだのではなく失われたのではないか──もう戻ることはないのでは、と考える意見が大勢を占めた。
愛してるって言って <完>