top of page

■ 愛してるって言って 9

 一旦帰社した後に駆けつけた病院では、寒々しい廊下の端にぽつんと血まみれのシロが立っていて、その異様な光景に知らずアオの肝が冷えた。
 クロは、そんなシロに付着した血を落とそうとしていて、タオルを洗ってきてはシロを拭う、また洗ってきては拭うを繰り返している。頭の先からしっぽの先まで拭われるまま、シロはただじっとしていて、瞬き一つしようとしない。ただただ集中治療室のドアを見つめていた。

「……シロさんの怪我の具合は?」

 病院のロビーはリーネア・レクタ関係者でごった返していたのに、ここには誰も近づかない。それが被害者家族に対する思いやりなのか、はたまた責任逃れなのかもっと別の意図なのか、アオには判じかねた。
 シロを拭ったタオルを洗いに洗面所に向かうクロの後について行って尋ねると、クロはただ一言「ない」と言った。

「? ないって」

「怪我してないんだよ、全然」

 アオの問いかけを遮ってクロは、しっかりはっきりと同じことを繰り返す。言いながらタオルを水に浸し、もみ擦って血を落とす。

「何にも、怪我一つしてないんだ。信じられるか?あの爆発現場の、犯人に最も近い位置にいたっていうのに」

 クロの言葉を受けてアオは洗面所から顔を出して、集中治療室前に佇むシロを見る。魂が抜けたように呆然としているシロは、クロがそばからいなくなったことも、アオが来たことも、まるで情報として頭に入っていないようだった。

「全部ユキさんの血なんだよ、これ」

 淡々とした、と言えそうなくらいに不自然に乾いたクロの声を聞く。タオルの血を洗い流しているクロの横顔は、何かに耐えるようにぎゅっと眉を顰めていた。
 会社の事務所でアオの帰りを待っていてくれた熊の上司は、早朝からの調査をねぎらい、そして現在わかっている限りの爆発事故の情報をアオに教えてくれた。昼過ぎ、……ちょうどアオが出てこない狼に苛立ちを募らせていたその頃、広場で大規模な爆破事件が発生したこと。現段階で死傷者は53名。今後まだ増える可能性があること。使用された電子爆弾に旧式の火薬を仕込んだものが複数、被害も広範囲に及んでいることなど。

 『ユキさんはリーネア・レクタの統括官だからな。かなり高度な、主要閣僚レベルの治療を受けてるはずだが……それでもまだ生死不明の重体だ』

 世界最高水準にあるレース・プーブリカ共和国の医療技術は、治療において多くの情報を読み取る。犯行に使われた武器の種類はもちろんのこと、その角度や方向、使用者の癖、場合によっては犯人のDNA情報が検出されることもある。故にリーネア・レクタでは国内最高レベルの医療従事者を専任として指定しており、ユキの治療は彼らが担当しているはずだった。
 リーネア・レクタ指定の医療従事者に治せなければ、何ぴとにも治せない。だが、どこもかしこも真っ白なはずのシロを赤く黒く染めたユキの血は、拭っても拭っても落ちないほどに流されている。
 声もなくただ見つめるアオを、突き飛ばすようにしてクロは洗面所から出てまたシロの前に立つ。動かないシロの手を取って、指の一本一本をなぞるようにして血を拭う。乾き始めてパリパリとシロの白い肌にこびりいていた赤黒い血が、それでようやく薄まり水に溶けていく。
 それを見るでもなく見ていたシロの目がふいに目の前のクロに焦点を合わせた。

「クロ……」

 小さく呟く彼に、クロもまた小さく「はい」と返す。

「ごめん、俺……クロに、あいつ店にいれるなって言われたのに……」

 ポツリ、ポツリと途切れるように話す。

「俺が入れた、せいで……。俺が、ご飯食べさせたから…………いや、俺が声をかけなければ」

「シロさん!」

 アオにはよくわからない話を漏らすシロの言葉を、クロが大声をあげて遮る。驚くでもなく、口を閉じたシロにクロは真剣な眼差しを向けた。

「シロさんのせいじゃ、ないです」

 キッパリと告げたクロに、しかしシロは頷かない。ただ俯いただけなのが妙に胸に迫って、アオも思わず視線をそらした。
 やがてそんなアオの耳に、集中治療室のドアが開くキィッという音が届く。開いた扉の向こうにいたのは、白衣に身を包んだ担当医と思しき男だった。

   +++

「副作用が、あります」

 ユキの“番い”を呼んで別室に招いた医者は、顔色を失ったシロと付き添ったクロ・アオの顔を順に見て静かにそう告げた。

「身体の損傷が最もひどく、ほとんどの部位を人造細胞と入れ替えることになりましたが、手術は無事成功しました。後は、ちゃんと元の組織と馴染むか──拒否反応が起きないか、見極める段階と言っていいでしょう。ただ、ユキヒロ・シオンさんは脳の損傷も激しく、これは人造細胞を使うわけにはいきません」

 医者は、部屋の壁にペタリと図を貼り、その脳細胞の絵を見ながら話し始める。

「細胞を活性化させて、強制的に修復を行うことができる薬があるのはご存知ですね?しかしその場合の修復というのは、元の細胞を再生させることではなくて、新たな細胞で損傷部位を覆うことを言います。その結果、これまで蓄積された機能が失われリセットされることは十分あり得る。……特に、シオンさんの脳で損壊しているのは記憶を司る部位にとても近い。記憶が、失われる可能性があります」

 壁の時計がカチカチと時を刻み、話をするうちに刻一刻と時間が過ぎていく。
 こうしているうちにユキの病状はどんどん変化しているのではないか。アオでさえそれが気になって、気が急いて仕方がない。

「細胞自体が入れ替わってしまうと、失われた細胞が持っていた記憶が戻ることはありません。しかし厄介なのは、欠損した細胞が有していた記憶であるために失われる場合の他に、細胞の喪失と再活性化という衝撃に耐えかねて記憶が沈むという現象も起こり得ることです。たまたま沈んでいるだけならば戻る可能性もある──けれどシオンさんの記憶が失われた場合、それが本当に失われたのかたまたま沈んでいるだけなのかの区別はつきません」

「……つまり記憶は、戻らないかもしれないし戻るかもしれない。そういうことですか」

 呆然としてるかと思ったシロは、意外にも感情の窺えない声で問いかけ、医者はその言葉を首肯した。

「曖昧で申し訳ないですが。……しかしこれが現在、シオンさんを助ける唯一の方法です」

 そう言ってから医者はようやく前に向き直って、シロに「どうしますか」と問い掛けた。

 リスクはある、けれど助ける方法がそれしかない。そんな状況で使わないという選択肢を選ぶことができる奴がいたらお目にかかってみたいものだと思う。シロは当然ながら、ユキが助かるならばと新薬の使用を決めた。
 同意書にサインをしたシロに医者は「他にご身内の方は」と尋ねる。それに口ごもったシロを見て、アオは初めて、ユキには父も母も兄弟も、親類の一匹もないのを知った。

 治療の経過を見守り、そしてユキの意識が戻るのを待つ。いつ終わるともわからないその日々を耐えるのはつらかった。シロにとっては勿論だろうが、クロにとっても、そしてアオにとっても。
 アオにとっては大きく恐ろしく、厳しく時に不可解な存在であったユキが、ただ黙ってベッドに大人しく収まっているのがそもそも信じられない。月日を追う毎に徐々に小さくなっていく、その姿が遣る瀬なかった。
 爆発事件の犯人のライオンは爆発により死亡。それを聞いた時シロはわずかに身を震わせた。犯人が何故事を起こしたのか、結局わからず仕舞いで、事件は早くも迷宮入りしつつあった。
 アオがユキの命で調べていた狼は行が方知れず。ユキが何を気にしていたのか、何をしようとしていたのかも全て藪の中。捜査から外され、見守るしかないアオにとってはユキがいたらと思うことは多かったが、ユキはいつまで経っても目覚めぬまま。

 やがて季節は秋から冬へと変わろうとしていた。

​□■ ← ・ → ■□

bottom of page