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■ 記憶の窒息 2

 話は二ヶ月前に遡る。

 病院の集中治療室でようやく目覚めたユキに対して、まず医者の診察と検査が優先され、さらにはリーネア・レクタによる事情聴取が行われた。その間、シロはずっとユキには会えなかった。一切の記憶は失われているが身についた習慣や知識は失われていないこと、日常生活に全く問題はなく、業務にも恐らく差し支えはないことなど、全ての確認が取れてからようやくシロはユキとの面会が許されたのだ。
 意識が戻ったと聞かされてからも会うことを許されず、記憶がないことを知らされたのみで、やきもきしていたシロは、許可が出た途端に飛び込むようにしてユキの病室を訪れた。

「ユキ……っ」

 ベッドに起き上がりベッドボードに背を預けて座っていたユキは、そんなシロの行動に、一瞬目を見開き、それからその整った顔をわずかに顰めた。そのかすかな変化に、シロの足はぴたりと止まる。
 紺碧のその瞳はいつも以上に透き通っていて、奥底まで見通せそうな程なのに感情の色を全く見せない。襟足を短くしていた銀髪も伸びて白い首筋にかかり、その毛先が白色がかって見えるほどで、それがまたユキを見知らぬ他人のように見せていた。

「……はじめまして」

 落ち着いた低い声で言って、ユキは真っ直ぐ貫くようにシロを真正面から見つめる。

「医師からお聞き及びでしょうが、私には以前の記憶がありません。そのため、あえて『はじめまして』と言わせていただきます」

 端正な顔に表情一つ浮かべずにそう言って、それからもう一度、ゆっくりと「はじめまして。ユキヒロ・シオンです」と名乗った。
 無事でよかった、目が覚めてよかったと言おうとした言葉がシロの喉奥で止まる。ごくり、とそれを嚥下して、シロは氷のように冷たい瞳をしたユキに向き直った。

「そ、うだよね……ごめん。はじめ、まして。シロです……」

 シロにしたらようやく目を覚ました番いであっても、ユキからしたら見知らぬ他人に過ぎない。そのことを改めて思い知らされて、胸の奥がツキンと痛む。だが、それを誤魔化そうと笑いかけたシロに、ユキは今度こそはっきりと眉を顰めた。

「……それは、愛称ですよね?」

 本名を名乗った相手に対して本名を名乗らないのは、礼儀に反する。言われてからようやくそのことに思い至り、唇を噛む。

「ごめん……マシロ・アカシアです」

 よろしく、と頭を下げたシロをユキは胡乱げな目で眺めてから、ふっと視線を外す。手元に置いていた紙の束を、そのすらりと長い指でぺらぺらとめくって、視線を落としながらシロに話しかけた。

「マシロさんは、リーネア・レクタの名簿にはお名前がないようですが。私とは一体どのような関係の方ですか?」

 ぱらぱらと最後までめくって、そこにシロの名前がないことを再確認するとユキはそれをパタンと閉じる。かなり分厚いそれらを彼は、シロが会えずにいる間に全て覚えたらしかった。

「あ……えと……」

 ユキとシロの関係は、一言で言えば番いだ。恋人であり、家族とも言える。

「えっと……」

 だが記憶のないユキにそれを言ってもいいのかわからない。一切の記憶がないユキの頭の中は完全に真っさらな状態であるから、ショッキングな情報は一度に提示せず、少しずつ説明するようにと医師に言われていた。……目の前の、見知らぬ白猫が番いだというのはショッキングな情報だろうか。

「ユキとは……幼馴染、です。ユキが3歳の時うちの隣に引っ越してきて……それからずっと……」

 もう少しして、慣れたら。今はまだ出会ったばかりのようなもので、ユキも突然そんなことを言われても戸惑うはずだから、もう少しして親しくなったら。その方がいいだろうと判断して、シロは穏当な表現に置き換える。

「ずっと? ということは、あなたも一緒にレーギアに?」

 だが、ユキの進学したエリート校の名前を出されて、シロはあわててかぶりを振る。

「あ、いや、俺は地元の学校で……!だからユキと一緒に過ごしたのは、ユキが3歳から9歳までの間だけだったけど。でも3年前にユキが、10年ぶりに地元に帰ってきてくれて。それで再会したんだ」

「なるほど。では10年間、会ったことはなかったんですね」

 10年間一度も会わないような奴は赤の他人だとでも言いたげな冷たいその言葉がまた、シロの胸にぐさりと刺さる。けれど、いくらシロが待っていてもユキが10年間一度も帰らなかったのは事実だ。だからシロは再会するまでユキがホワイトタイガーだったことを知らなかった。これまで気にしたことのなかったそのことが今、改めてシロに重くのしかかる。
 何も言わないシロをユキは無言で見下ろしてくる。その視線がやけに重く感じられて、シロはその日は早々に病室を逃げ出したのだった。

「シロさん、もういいんですか」

 廊下に出たシロの姿を目ざとく見つけて、クロが声をかけてくる。

「うん……ユキも、疲れてるだろうしね……」

 ぎこちなく笑うシロにクロが不審げな顔をする。クロにまでそんな顔をされたくなくて、シロは手に持った荷物をまとめた。

「明日、改めてまた来るよ。家もいい加減、片付けなきゃだし」

 ユキが目覚めるまでの1ヶ月近く、シロはずっとこの病院に詰めていてほとんど家に帰らなかった。だから家の中は事件のあった日曜の朝に出かけた時のままで、帰ってきたら取り込もうと思っていた洗濯物もそのままだ。
 言い訳として口にしたはずの言葉でようやくそのことに思い至ったシロに、クロは黙って頷いた。

 1ヶ月ぶりに帰宅した家では、ユキとシロの生活の痕跡がシロの帰りを待っていた。
 共に並んだグラス、二匹分の洗濯物、一匹分には大きすぎるシーツ、ユキの匂いのするシロのブランケット。ユキがシロを忘れても、シロがユキに説明できなくても、この家はユキとシロを忘れていない。ユキが与えてくれたこの家の存在が、無性にありがたく思えた。
 重い足を引きずってグラスを流しに置き、干しっぱなしだった洗濯物とシーツをもう一度洗濯カゴに戻し、リビングに放り出されていたブランケットを抱えて二階に上がる。寝室を扉を開けて、どさりとベッドに横たわる。沈み込むスプリングに身を任せると、立ち上がる気力が起きなかった。

 ──はじまして、か……。

 視線の先には窓の外、暗く憂鬱な空が広がって、風が渺々と吹き抜けている。それを見ながらシロはぼんやりと、ユキと本当に初めて会った18年前もそういえばこんな、嵐が来そうな空だったと思い出した。

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