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■ 記憶の窒息 3

 シロの育った地元は南を国境に面し、北西に永久凍土を抱く山脈の平野部にあった。無論冬は南の地も全て凍りつくけれど、北西部の山脈が北からの風を遮るため北部にある首都より格段に暖かく、越冬の準備を怠らなければ冬になっても凍死者は出ない。ここで凍死者が出るようなら国内全土の8割が死に絶えた証拠だとも言われた。
 温順な気候ゆえに春~秋は農業と漁業で十分生活が成り立つ。シロの家も山間部で採れる果物を加工して都市部へ送ることを生業としていたから、幼い頃からシロは山に慣れ親しみ、自分の庭のようにして育った。

 シロの家の二階の窓から見える空はいつも町の上が薄い水色で山の上が深い蒼、海の上が引き摺り込まれそうな程の濃い藍。気候によりその濃淡は変化した。嵐が来ればそれは濃く黒みを帯び、秋が近づけば空の底まで見通せそうなほどの透明感を抱いた。

『ほら、嵐が来るよ』

 そんな空の変化を読む術をシロに教えてくれたのはいつもシロを連れて山に行っていた父で、父の耳が空鳴きを聞き取ろうとピクピク動くのをシロは見ていた。

『空の声が聴こえるだろう?嵐が来るって鳴いてる。この分なら今年は三回来るかな。……豊作になるよ』

 シロの父は空を読む術に長けていたから、来たるべき嵐の時期、その回数、その結果としての秋の収穫状況、冬の長さ、その厳しさをピタリと言い当てた。父の言はシロの知る限り一度たりとも誤ったことがなく、故にシロの家は冬になって食糧も燃料も尽きることもなく、場合によっては近隣の家を助ける余裕さえあった。
 レース・プーブリカの冬に食糧が尽きることはすなわちそのまま餓死することを意味する。また燃料が尽きることも凍死することを意味した。だから天候を読む術に秀でたシロの父は重宝され尊敬された。その術を継いだシロも、また。
 就学年齢に達する以前はシロはいつも父と共に山に行き果物を採っていたから、その生活の中で自然と空を読む術を覚えた。やがて就学年齢に達しても、シロが身に付けた空を読む術はそこでも発揮された。遠足、修学旅行、合宿の度にシロは重宝されたしシロも自分の空読みに自信を抱いていた。

 空が鳴く……啼く。悲鳴のようなその声を聞くことはシロにとっては至極当然のことだった。だから、隣に越して来た空色の瞳をしたサバトラの子猫が怯えて何も喋らなくても、シロはその瞳を覗き込むことで彼の意思を読むことができた。

 ──怖い。恐い。お父さん。誰か助けて。一緒にいて。恐い……怖い。

 そう必死で訴えていたその子の声が他の人には聞こえないらしいのが、シロにはとても不思議だった。

 ──こんなに、全身で訴えてるのに

 そう思って父を見上げると、シロの父はシロの思いを読んだように微笑って頷く。その笑顔に力づけられて、再び子猫の目を覗き込んだ。

「大丈夫だよ。何もこわくない」

 そう話しかけると彼は驚いたようにその空色の瞳を見開く。薄い虹彩の奥に陽が差す前に似た金色の光を見つけて、小さく頷く。瞳孔が大きく開いてシロを収めるのを確認してから、そっと手を出して頭を撫でた。
 しばらくの間、じっと身を固めていたその子は少ししてからごろごろと喉を鳴らして、空啼きに似た音を立てた。



 ──随分違った、“はじめまして”になっちゃったけど

 病院で目を覚ましたユキの紺碧の瞳は、もうシロには何も語り掛けてはこなかった。時に薄く、時に深く変化した色合いも変わってしまってまるでその底が読めない。ユキが病院で目覚めたと聞いた時は、その紺碧の瞳を再び見ることができるとほっとしたはずなのに、何も語らないその瞳に不安しか感じなかった。何を考えているのかまるでわからなくて、恐ろしかった。

 ──でも、ユキがあの頃に戻ってなくて、よかったんだ……。

 しかしその一方で、シロは自分にそう言い聞かせる。ユキの態度は慇懃丁寧で非礼一つなく、紳士的ですらあった。それは恐らくユキが首都で身に付けた社交性の一つで、知り合いのいない場所で一匹で生きていくための術。
 ユキが全ての記憶を失えば幼児退行を起こすことも十分あり得たのに、それは起こらなかった。もしも記憶をなくしたまま幼い頃のユキに戻ってしまっていたら、それは誰も知り合いのいない世界にたった一匹、幼いあの子を放り出すことになったはずだ。

 見知らぬ他人が恐くて震えていたあの頃のユキを一匹で泣かせるくらいなら──誰も助けに来ない世界に置き去りにするくらいなら。自分が冷静冷徹なユキに他人のような目で見られるつらさの方が百倍マシなはずだった。いくら記憶が失われていたって、いくらシロのことがわからなくたって、ユキはユキなんだから、いつかきっとまたその“声”が聴こえるようになる。

 そう自分に言い聞かせて、シロはブランケットを身体に巻きつける。馴染んだユキの匂いがかすかにする、それを頼りにそっと目を閉じた。

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