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■ 記憶の窒息 7

 翌日から、シロはユキの病院に姿を見せなくなった。それが2日経ち、3日経つに及んで、ユキとシロの両方の様子を見るため病院に足を運んでいたクロがようやくそのことに気づいた。

「シロさんはどうしたんです?」

 浮かない表情ながら、いつもユキの病室の隅にいたシロがいない。最初はたまたまいないのかと思ったが、何度行ってもいない。だが、クロの問いかけに対するユキの返答は実に素っ気なかった。

「知らない」

「知らないって……。あなたの番いでしょう」

 シロは告げていないようだったが、己の番いが誰か、ユキはとうの昔に気づいているし知っている。その確信がクロにはあった。
 ユキの番いが白猫であることは有名だったから、それは誰からともなく耳に入るはず。そしてユキの周りに白猫はシロしかなく、そのシロが毎日毎日病室にやってくるのだから気づくなという方が無理だ。シロのことを知らない、ユキのレーギア校時代の友人たちでさえ訝しんでいた。“マシロ”と紹介された白猫、あれはかつてユキが言っていた“シロさん”ではないのか、と。

「あのひとは、俺の番いじゃないよ」

 なのにユキは、そんなことを言う。この期に及んで、とクロは苛立ちも露わにユキのベッドのそばに立って彼を見下ろした。

「あなたの番いですよ。知ってるでしょう」

 ユキは事故前の自分に関係する書類は全て取り寄せ、目を通していた。その中にはディーノの利権関係書類もあったはず。リストランテ・ディーノのオーナーはユキ、共同経営者はシロ。リーネア・レクタに勤めるユキが料理店を営む理由など一目瞭然だ。
 なのにユキは、上から圧力を掛けるようにして言うクロの言葉にもあっさりと首を振った。

「以前はそうだったかもしれない。でも今は違う。俺はあのひとの“ユキ”じゃないし、あのひとの番いでもない」

 その冷徹極まりない言葉にクロは低く唸る。

「……あんたそれ、本気で言ってんですか」

 ユキが目覚めるまでずっと心配していたシロを、思い詰めすぎて先に壊れてしまうんじゃないかというくらい心配して、自分を責め続けていたシロを、それでも自分の番いではない──自分に何の関わりもないと、本気で?
 だがクロのその言葉にユキはゆっくりと首を巡らしてクロを見た。そこにあったのは、何の感情も伴わない清冽な双眸。かつての“ユキ”が見せたことのない、その澄んだ瞳にクロも思わず息を呑む。そんなクロをじっと見て、それから初めてユキは、その人形のように整った顔に表情らしき表情を浮かべた。
 苦笑するように、それでいて自らを嘲るように口角を上げる。氷のような瞳がわずかに揺らいで、春の雨の朝のような静寂さと淋しさを滲ませた。

「あのひとが求めているのは、“俺”じゃないよ」

 穏やかなその言葉の奥に、クロは一言では言い切れない複雑な色合いを読み取る。
 リーネア・レクタの統括官として、いつも何かに迷うということもなく、その姿勢がブレることのなかった“ユキ”。しかしその“ユキ”も、シロを想う時だけは違った。記憶をなくす前の“ユキ”は、シロのことを話す時はいつも微笑んでいた。笑っていた。けれどその穏やかさの中にいつも複雑な感情があったのをクロは知っている。
 今のユキは、その時の“ユキ”と重なる。

「……あんた、シロさんが好きなのか」

 番いとして暮らした月日の記憶を失っていても。出会いも別れも何も思い出せなくても。
 その問いかけにユキは肯定も否定もせず、ただ窓の外の葉の落ちた木々を見つめた。



 大通りを抜けて、高級住宅街に入る。二階建てのメゾネットハウス。その前でクロは立ち止まり、呼び鈴を押した。
 この家は、ユキがシロを住まわせるために拵えた家。最新のシステムが搭載された、鉄壁の安全対策を誇る家だった。呼び鈴を押すというただそれだけでも、指紋照合から生体認証まで全てが完了するようプログラムが組み込まれている。何度かこの家を訪れたことのあるクロはすでにこの家の来客データに登録されていて、中ではクロが来たことを知らせるべくシステムが作動しているはずだった。だが中からは物音ひとつせず、人の気配も感じられない。
 以前、何かあった時のためにと預けられた、認証コードを呼び鈴横の端末に打ち込む。今まで一度も使用したことのなかったそのコードは、カシャン、と軽い音を立てて戸の鍵を開けた。非常時用のこの解鍵コードで玄関の扉は開けることができる。しかしここが開くと同時にセキュリティロックが作動して、金庫を始めとした家内のあらゆる鍵は通常の解鍵コードでは開かなくなったはずだ。主以外の客は、ただ入って出て行くしかできない。けれど今のクロにはそれで充分だった。
 玄関を通り抜け、リビングに足を踏み込む。かすかに感じる違和感。それに唇を噛んで、クロはさらに二階を目指す。ユキとシロの部屋、そして寝室があるはずの上への階段を上り、そこでクロははっきりと違和感の正体を見せつけられた。
 二階を覆い尽くしていたのは違和感なんてのんきな代物ではなく、目の反らしようもないほどの大いなる喪失感。シロの部屋だったはずのところはもぬけの殻で、寝室にもユキの物しか残されていない。ガランとした部屋の真ん中で、クロはただ茫然と立ち尽くした。

 思えば、一階のリビングも不自然なほどに片付いていた。よく見ればきっと、なくなっているものが色々とあるに違いない。シロがユキの番いとしてここに住んでいたことを示す一切合切、それがこの家からは全て排除されている。二重三重の安全策が施されたシロのための家。しかしそこにシロの痕跡は跡形もなく消し去られていた。
 ユキの家を出て、ディーノやバー・スピールト、漁港や市場など、シロの立ち寄りそうな場所を探す。果てはシロの地元に問い合わせまでしたが、シロの行方はわからず、足取りは杳として知れなかった。

   +++

 それから一ヶ月余り。ユキは退院してリーネア・レクタの仕事に戻り、明日からは本部の統括官としての仕事に復帰する。何の問題もなくそれをこなしているように見せかけてはいるものの、その顔には疲労の色が見えた。
 眠れないのだと、医者に漏らしたらしい。日に日に焦燥感が増すのだとも、言ったらしい。ユキは退院してからずっと、あの大事なものの欠けた家で一匹で暮らしている。
 一方のクロはというと、前職にバイトとして戻りながらも、ずっとシロの行方が気にかかっていた。
 もうすぐ本格的な冬が来る。レース・プーブリカ共和国の中でも北部に位置する首都の冬は厳しい。それは、南の温暖な地域で育ったシロにとって、並のもの以上につらいと聞いたことがあった。シロのために用意されたあの家は、可能な限りの防寒対策が施されていたが、それでもシロは秋口くらいから寒い寒いと言ってブランケットにくるまり、ソファの上で丸くなることが多かった。冷たくなったと言ってしっぽの先を揉む姿をディーノでもよく目にした。街中が凍り付き、ディーノも営業を休止する真冬になると、ユキの懐に深く抱かれて、体温を分け与えられてようやく眠りにつけると聞いた。
 元気な頃でさえその有様であったのだから、弱って痩せてしまった今のシロが並の防寒対策しかなされていない場所で一匹で生き延びられるとは到底思えない。レース・プーブリカの冬は死の季節。それがシロの命を奪うのではないかと、クロは危惧していた。

記憶の窒息 <完>

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