top of page

■ 凍えるように小さな声で 2

「結論から言うと、狼さんは空港でユキさんに会った時、今はウルブスに仕えてるって言ったんだってさ」

 ぺたりと机にうつ伏せながら、アオは落ち着いた口調で淡々と語る。
 アオが追い続けた“シロの昔の男”、トキノ・ピルキス。超難関料理学校として知られるゲラータエを首席で卒業、その後、三ツ星レストランからの誘いを全て蹴って単身放浪の旅に出たという変わり者。各地の料理を食べ歩いて、一から修行し直したのだとか、何とか。料理界でも異色の経歴の持ち主として知られている。昔の男かどうかは知らないが、クロもシロから“師匠”の話はよく聞いていた。
 しかし、なぜ今になってユキはトキを調べさせたのか。そっちの方がむしろクロとしては気になったが、その謎は割と簡単に解けた。空港で偶然再会して、そこでトキが首都に来ていることをユキは知ったらしい。

「けどさー、ユキさんもいい加減にして欲しいよな。ちっとくらい情報漏らしてくれてりゃ、こんなことにはならなかったのに」

 そうむくれるアオをクロは思わず鼻で笑ってしまう。

「ユキさんの秘密主義は今更だろ」

 そう、ユキの秘密主義など今更だ。いつ、どこで足を掬われてもおかしくないリーネア・レクタの統括官として、その自覚を十分に持っているユキは決定的な証拠を掴んで上層部に叩きつけるまでは掌に握った情報を決して開示しないし、安易には動かない。いつ誰に解析されるかわからないと端末にさえデータを残してはおかないし、リーネア・レクタ上層部・同僚・部下に対しても情報を漏らしはしないほどなのだ。現に、ユキが記憶喪失になった後で、業務上の必要があるとの判断がなされて上層部によりユキの端末が強制的に解錠されたが、中には重要な情報など何一つ痕跡一つ残ってはいなかった。ユキの個人執務室も同じ。ユキは徹底して、身内であるリーネア・レクタすら信用していなかったのだ。

「まあねえ。でもそのユキさんもさすがに、護衛のにーちゃんの口は塞げなかったか」

「または、塞がなかったか、だな。軍部の馬鹿ならわからないだろうと思って気を抜いたんだとしたら、ユキさんも甘いと俺は思うけど」

 護衛任務に当たった青年は、その意味を理解していなくても見聞きしてはいる。無論護衛を任されるくらいだから口の堅さは軍部のお墨付きではあるが、理解していないからこそその重要性を見誤ることはある。今回などはまさにそれだ。護衛の青年はまさか、ユキの部下として立ち働いていたアオが、気軽に世間話として振ってきた“サビ色の狼”の話、それがユキの調査情報への鍵になるなど思いもしなかっただろう。
 そんな見解をつらつらと語ったクロにアオは「俺が騙したみたいじゃん」と言って、ぷう、と口を尖らせた。

 アオからメモリスティックを受け取り、端末に繋ぐ。トキの一件を端緒として徐々に全体図が現れ始めた、ユキが握っていただろう“結構やばい”情報。淡々と見つめていたクロの手も思わず、一瞬止まる。

「……なるほど。これ、確かか?」

 ごくり、と唾を飲む音が静まり返ったオフィスに響く。

「間違いねーよ。裏取ったもん」

 いつも軽薄に響くアオの声が、今はさらに白々と嘘っぽくさえ聞こえた。

「よし。明日、これをユキさんに見せる」

 記憶を失っていても、腐ってもユキだ、判断は誤らないはず。そう思いながらメモリスティックを端末から引き抜いたクロをアオがじっと見ていた。

「……なあ」

 片付けをするクロをアオの声が引き止める。振り向いたクロの視線と、じっと見つめるアオの視線が今日初めて重なった。

「シロさん、ここにいるかな?」

 端的で、かつ偽りも修飾もない一言。それが思いの外、クロの胸を深く抉る。
 アオとクロの調査により、徐々に点と点が繋がって線となり、事件全体の絵が見え始めている。けれど肝心要のシロの居場所は、未だにはっきりとはわからないままだった。

 ──『あの子たちは、元気にしてる?』

 ふいにクロの耳の奥、穏やかな声が蘇った。シロの行方を捜して、シロの田舎に行った時に突きつけられた言葉。アカシア家の、かつてユキが使っていたという部屋には、今は、シロが首都から送りつけたという大量の段ボール箱が転がっていた。



 白猫のシロことマシロ・アカシアは、南部地方のルースという町に生まれた。絵に描いたような“平和な田舎町”のそこで、ごくごく普通に平凡に、町の皆から愛されて大きくなったという。ルースを訪ねれば今でも町の誰もがシロのことを知っている。

『あの子も元気にしてる?』

 そのついでのように話題に出されるのが、ユキだ。
 ルースの町における彼の存在感は希薄で、“シロが可愛がっていたあの子”という認識でしかない。首都ではリーネア・レクタの統括官として知られた存在で、エリート中のエリート、その頭脳は随一と謳われるユキヒロ・シオンであるが、そのユキもこの町では形無しだ。
 だがそれも仕方のないことではある。生まれてからの22年間をずっとこの町の中で過ごしたシロと違い、ユキがこのルースの町で暮らしたのは、3歳の時に父親に連れられて引っ越して来てから9歳の時に町を出るまでの6年間。その後の消息もシロから聞いただけというひとがほとんどで、一度だけ果たしたはずの帰省の際にも、ユキはシロとその両親にしか会わなかったらしい。町のひとびとにとって彼は姿形さえあやふやな、遠い記憶の中にしか存在しないのだ。
 それでもルースのひとびとがユキのことを完全に忘れたりしないのは、ひとえにシロの存在による。

『今でもアカシア家には、あの子の部屋があるのよ』

 シロのことは自分が一番よく知っている──そう主張した、アカシア家の斜向かいに住むという女性は自慢げにシロのことを話してくれて、にこっと明るい笑みを見せた。その笑顔の明るさは、わずかにだがシロの笑顔と印象が重なる。

『あの子は9歳の時に突然出て行ったきり、一度も戻らなかったっていうのにね』

 ユキが首都に出て行ってからの10年間ずっとシロはルースの町でユキを待ち続け、彼が帰ってきたときのためにとユキの居場所を維持し続けたらしい。その間にこの町はどんどんとひとが減り、過疎化して衰えていく。シロ自身も様々なものを手放し、シロの部屋というのは無くなったというのに、ユキの部屋だけはずっとそのままにしていた。
 しかし、だからといってシロはユキがルースの町に戻ってくることを望んでいたのかというと、それはそれで少し違うのだという。

『あの子の居場所が首都にできたなら、それはいいことなんだって言ってね』

 そう言って彼女は寂しげに眉を下げる。

 ──『もうこの部屋は……町は、ユキにとって過去のもので、必要ないならそれでいいんだ』

 けれど万が一のために、もしもユキが首都で暮らすのがつらくなって逃げ出したくなった時のために、置いてあるだけなのだと言ったらしい。

 ──『本当は、必要ない方がいいんだよ。でも、首都がどんなところか俺は知らないけど……きっと、いいことばかりじゃないでしょ?』

 だから念のためだと笑った割に、いつ帰ってきてもいいようにきちんと維持していたのだそうだ。

『毎朝一番に窓を開けて空気を入れ替えてね。掃除をして、使ってもいない布団も干して。シーツや布団カバー、カーテンもたまに洗って、あの子が今日明日急に帰って来てもいいように』

 そう言って女性は瞳を潤ませた。

『だから、あの子がシロちゃんを迎えに来て、一緒に首都に行ったって聞いた時は、寂しかったけど嬉しかった。あの子のための部屋はもう本当に必要がなくなって、……シロちゃんが願った通りになったんだって、わかったから』

 この町の外に、シロの他に、ユキを受け入れてくれる場所が出来ること。それを望んだかつてのシロの想いが報われた。今なおアカシア家に残るユキの部屋は、そんなかつての出来事を思い出すためのよすがに過ぎない。
 そう語った女性は、クロに再びにこりと笑いかけた。

『あの子たちは、元気にしてる?』

 二匹を案じるあたたかな声に、想いに、応える言葉をクロは持たなかった。
 ユキと二匹で暮らしていた家から自身の私物だけを持ち出したシロが、それを送ったのは、かつて毎日整えて維持を続けたその部屋。ユキのためにと用意した部屋に、シロは二匹で暮らした生活の残滓を全て詰め込み、姿を消した。それから一ヶ月。未だシロの消息は不明のまま。



「わかんねえ、けど」

 ライオンのことも、ユキのことも。他のことも全部、落ち着いたら、なんて思わずに聞いておけばよかったのだ。
 何故シロはディーノを臨時休業にしたのか。この先どうするつもりなのか、ユキとのことはこの先どうしたいと考えていたのか。
 聞かないことで、理解あるふりをしようとしたのかもしれない。面倒事に関わるのが嫌だったのかもしれない。今でなくてもいいと見誤ったのかもしれない。あの時、自分がどう思ったのかと自分自身に問うことは案外難しくて、自己弁護をしたり正当化してしまいそうな己が煩わしい。だが一つだけわかっていること、それは、もう一度シロに会ったら今度はきちんと話を聞きたいというそれだけだった。
 ディーノのことも、ユキのことも。それ以外も全て、シロの口からきちんと聞きたい。

「ここにいなかったら、また捜す」

 連れ戻したいわけではない。ただ、捜したい。そう答えたクロにアオは目を丸くして、……それからいつもの気の抜けた、ふにゃっとした笑い方で笑った。

□■ ← ・ → ■□

bottom of page