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■ 凍えるように小さな声で 3

 ユキの護衛に就いていた軍部の青年の証言によると、トキは今は隣国・ウルブスに料理人として身を寄せていると語ったのだそうだ。外務省が把握しているウルブスの新規雇用リストにも、確かに宮廷料理人一名とある。
 ウルブスというのは強力な軍事力によってのし上がってきた国だ。一般的なレース・プーブリカ共和国国民からしたら比較的縁遠いはずのその国へ、トキを縁づけたのは“ズロー”という組織。それは真っ当な人材斡旋を生業とする傍らで、人身売買もしている闇ブローカーの名である。

「それが“黒牛”と“ライオン”いうわけか」

 クロの話をずっと黙って聞いていたユキだったが、一通り聞き終えたところでぽつりと声を漏らした。

「はい。ズローは奴隷売買の側面と、人材斡旋の側面とをうまく使い分けているようで。人材斡旋は“黒牛”が、奴隷売買は“ライオン”が担当していたそうです」

 ユキが記憶を失う原因となった広場での爆破事件。その直前にユキとシロが、ライオンと黒牛に話しかけていたことについては多くの目撃証言がある。また事件直後の事情聴取でシロからも、自身がライオンと面識があったこと、また黒牛とは面識はなかったが、黒牛が逆にユキのことを認知していたようだったという調書が取れていた。
 そもそも空港でユキとトキが会ったことからして、偶然でも何でもなかった。ユキがその時、空港に迎えに行っていたのはウルブスからの亡命希望者。それと同じ便でトキも帰国したのだ。ウルブスとの直通便は日に何本もあるわけではない。亡命希望者とトキが同じ飛行機であったのは、全く以て自然なことだったのだ。

 ユキがリーネア・レクタの統括官だと知りつつウルブスの名を出したというトキは、わざとユキの警戒を誘うような真似をしたのだろうか。トキの真意はわからないけれど、結果としてユキはウルブスについて調べ、その過程でズローの存在を知ったのだろう。だから広場で黒牛に会ったときにも、その存在にピンと来た。また逆に犯人にとっては、リーネア・レクタの統括官という謂わば天敵に尻尾を掴まれていたことを知り、ユキを消し去ろうとしたのではないか。

「ズローについてシロさんは何も知らなかったと思います。ただ、いなくなる直前、広場に花束を手向けに行ったことが確認されています。それとほぼ同時刻、同じ広場で黒牛の目撃証言が」

 爆破事件の渦中にいたはずの黒牛。事件前シロがディーノで飯を食わせてやったライオンは、爆破によって死亡した。なのに黒牛だけがのうのうと生きているのを、もしもシロが目にしたなら。

 ──シロさんなら、絶対に黒牛の後を追う

 そして闇ブローカーの手に落ちたのなら、その消息がぱったりと途絶えて追えないことにも説明がつく。いやむしろ、そうでなければ説明がつかないのだ。リーネア・レクタの情報網から逃れるためには、アンダーグラウンドに潜るしか方法はないのだから。
 ユキはそんなクロの話をただ静かに聞いた。クロの提示する調書データに目を落とす、端正に整った横顔からは何の表情も読み取れない。クロの話を最後まで聞いて、それからようやく、ゆっくりゆっくりとその顔を上げた。
 色素の薄いアイスブルーの瞳がクロを見つめる。しかしその目には、驚きは少しも含まれてはいなかった。浮かんでいたのは、複雑な色合いの感情。かつて病室で目覚めた頃の、そして退院を待っていた頃のような澄み切った瞳は今のユキには見受けられない。ただただ暗く沈みがちな、暗雲立ち込める空にも似た重々しい色をしていた。

「クロ、ちょっと来い」

 低い声で一言言って、ユキは組んでいた脚を解いて静かな動作で立ち上がる。ちらりと横目で流される視線に従って、クロもまたユキの個人執務室の椅子を立った。



 クロやアオが住んでいる雑多な下街とは空気からして異なる、閑静な住宅街の一画。
 その自宅に戻ったユキは、二階のユキの自室にクロをいざなった。二重三重の認証システムをクリアしてからようやく開かれた部屋の扉を見て、この部屋の戸に手をかけなくてよかったとクロは内心密かにホッとする。シロの不在を確かめるために入った時に、もしもユキの部屋も確認しようとしていたら、あっという間に警備員が来て捕まっただろう。そのくらい、ユキの部屋の警備は厳重で物々しかった。
 部屋の中は、リーネア・レクタにあるユキの個人執務室と同様に、壁という壁を書棚が覆い隠し、それが天井まで届いている。その棚の一つ一つには丁寧にファイリングされた資料がぎっしりと詰まっていた。その中から乱雑な仕草でユキは次々にファイルを手に取ってはテーブルの上に放り投げる。分厚いそれらは投げられる度に、ばたんばたんと大きな音を立てた。
 手伝っていいものか悩んで結局黙って見つめるクロの前で、やがて目的のものを全て出し終えたのか、ユキはどさりと椅子に身体を投げ出し、そして突っ立ったままのクロに投げやりな視線を送った。

「ズローについての資料だ。それを読めば、あの組織については粗方掴める」

「え」

 目を見開くクロにユキはうなづく。

「事件前にまとめておいたらしい」

 誰が、とは言わないその言葉が、ゆっくりとクロの頭に沁みてくる。情報開示の準備がなされている、それはつまり事件前にユキはリーネア・レクタ本部を動かすつもりでいたということだ。
 爆破事件の首謀者と目されるライオン、そして黒牛がズローに関わっていたという情報は、確かに爆破事件の様相を塗り替えるだけの威力を持つ。しかしそういった闇ブローカーがあることは以前から知られていたことではあるし、それを取り締まるのはリーネア・レクタではなく法執行機関である軍部の仕事である。だがユキは軍部を突くのではなく、直々にリーネア・レクタ本部を指揮する気でいたということか。

「目を通せばわかるが、お前たちが調べたことで概略は間違いない。だがそれに加えて、もう少し面倒事がある」

「……面倒事?」

 その問いに、クロは視線をファイリングされた資料の山に走らせた。国際的に暗躍する闇ブローカーについての捜査報告書。目を細めてそれを見たクロは、ふとそれに違和感を持った。
 ユキの報告書はいつも丁寧で遺漏一つないことで知られていたから、それが膨大であることは全く以て不審ではない。だがそれにしても、分厚い10センチ厚のファイルが小山ができる程のこれは、あまりに多過ぎではないか。頭の中で、自分ならばと報告書に記載すべき点を数え上げる。ズローという組織の実態、人材斡旋と奴隷売買についての調査資料、それが主にウルブスという軍事国家を主要取引先としている可能性など。数え上げれば数え上げるほど違和感が募る。端的で無駄のないユキの報告書ならば、その内容ならこの三分の一で済むはずだ。……倍以上の分量を占める、“面倒事”とは何だ。
 じっとファイルを睨むクロを見つめていたユキが、ふいに表情を緩ませた。微笑む、というほどではない。しかし存外柔らかな表情だった。

「問題はこれを、どこに提出するかということなんだ。“ユキ”がやりかけた仕事は全うしようとは思う、したいとは思うんだが、どうすべきかな……それに迷って、まだこうして手元に置いていた」

「どこにって」

 リーネア・レクタ本部、つまり上層部ではないのか。そんなクロの考えを正しく読んだらしいユキは今度こそ破顔した。

「上層部に出したら明日を待たずして俺の首が飛ぶ。いや、飛ぶだけで済んだら御の字かな」

 そう言ってユキはにこりと笑う。それはかつての、記憶を失う前の“ユキ”の笑顔に似ていた。

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