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■ 凍えるように小さな声で 15

 ──家を忘れて帰って来ないからって、いつまでも迷子のまま放っとくな

 そのトキの言葉を聞いてシロは、自分の考え違いを恥じた。
 病院で意識を取り戻したユキがしっかりしていたから、ユキは平気なんだと思ってしまった。見知らぬ世界に突然放り込まれて右も左もわからないような状態で、自分のことも他の誰のことも何もわからなくて、平気なはずなんてないのに。

 平気じゃない時に平気なふりをするのは、記憶をなくす前と同じ、“ユキ”の処世術の一つだ。平気じゃない癖に、本当は嫌な癖に、平気なふりをする“ユキ”をシロはいつも叱っていた。仕事では時にそれが必要なことはわかる、でもだからって自分の前でまで平気なふりをするな、と。
 リーネア・レクタの統括官という仕事は、小さなリストランテに来た客を喜ばせるのが仕事のシロとは違って、嘘をついたり騙したり、ひとを陥れたりすることも時として仕事のうちに入るようだった。政治的策略的取引とか司法交渉とか、シロにはよくわからない難しい事情がいっぱいあって、お決まりの正義感を振りかざすだけではダメらしい。そこらへんの事情を“ユキ”は全く語らなかったけれど、以前クロが「みんながみんな、善良な一市民なわけじゃないですしね」と呟いたのを聞いて、少し合点がいった。

 ひとは誰もが清く正しく生きているわけじゃない。ひとを憎んだり恨んだり、ひとの幸せを奪い取ったりして生きていかなければならないこともある。そうやって必死で生きている様々なひとたちの生き様に接するのが“ユキ”の仕事で、だから“ユキ”にも多様性が求められるのだろう。いい人ぶったり悪い人ぶったり、褒めたり宥めたり、騙したり陥れたりして“ユキ”は対応している。だからそれが仕事上必要なことはわかる、けれど……けれど小さかった頃の“ユキ”は、たとえそれがやむを得ない事情があった場合でも、人を騙したり陥れたりすることを誰よりも嫌悪していたから。自分だけはそうなりたくないといつも言っていたから。だからせめて自分の前でくらいは、“ユキ”は“ユキ”のままでいいよと言いたかったのだ。

 それはもしかしたら、わざと露悪的に振る舞う“ユキ”を見たくない、シロのエゴなのかもしれなかった。けれど“ユキ”はシロがそう言った時、嬉しそうに笑ったのだ。少しはにかむように、照れくさそうに笑った“ユキ”を見て、シロは、自分だけは“ユキ”の本当の気持ちに気づいてあげたいと思った。平気なふりをする“ユキ”の、本当は全然平気じゃない気持ちに気づいてあげたい。それが幼馴染として、伴侶として、そばにいる自分の役目だと思ったのだ。
 なのにそのシロが、“記憶がない”というだけでユキを“ユキ”じゃないと勝手に思って、その言葉を鵜呑みにしてしまった。ユキは迷子の子猫で、右も左もわからなくて泣いていたに違いないのに。

 ──迎えに、行かなきゃ

 ユキを迎えに行って、大丈夫だよと言ってあげなければならない。ぎゅっと抱きしめて頭を撫でて、それから。

「愛してる、って」

 吐息のように小さな声で、シロは呟く。
 たとえユキが“ユキ”の記憶を失っていても。ユキのことが大切で、大好きで、だからここからもう一度、やり直したい、やり直して欲しいのだと伝えなければならない。その思いがをシロの内側に強い火をともす。
 強く打ち付けられたらしい後頭部は、トキの巻いてくれた包帯の内側、またじくじくと血が滲んでいる。凍傷になった手足の指先はもう感覚がなくて、歩くのさえもやっとだ。けれど、満身創痍と言っていいような状態であっても、シロの頭の中はクリアだった。

 澄んだ翡翠の瞳で上を見上げる。空高く懸かった月は、恐ろしい程に冴え切っていた。全てが雪に白く染め上げられた冬のレース・プーブリカ共和国を、月光がさらに輝かせる。煌々と明るい月をシロはしばしじっと見上げた。
 待てど暮らせど戻らないソラに業を煮やしたトキは、シロに自力で病院へ行くように言って、自身はソラを捜しに行った。「お前は、お前のやるべきことをしろ」、それが、ソラ捜しの手伝いを申し出たシロにトキが言った言葉だ。
 シロのやるべきこと。それを、凍るような白い月に刻む。

 ──行かなきゃ

 一つ頷いて、シロは一歩、また一歩と歩を進めた。歩く度に激痛が走る。けれど立ち止まろうとは思わない。シロに、もうためらいはなかった。

凍えるように小さな声で <完>

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