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■ それは陽だまりに似た 2

 そこは確かに外だったけれど、真下は断崖絶壁、はるか下方に海が見えた。
 夏場ならば下の海に向かって飛び込めば、そのまま逃げられたのかもしれない。けれど全てのものを凍らせる冬を迎えたレース・プーブリカの海は、当然固く凍り付いていて、とてもではないが飛び込めるような状態ではなかった。ここから落ちたら、まず間違いなく死ぬ。

「……ダメだ……どうしよう…」

 崩れ落ちるように座り込む。疲労のためにガクガクと震える足を引き寄せて、シロは丸く身を縮めた。
 今来た道を戻る、という選択肢は選べなかった。シロはさっきの巨岩の前で、その選択肢を捨ててしまった。何よりもう体力が限界に近かった。
 下に広がる海は真っ白で、氷の上にさらに雪が積もっているようだ。もうここまでか、と思いながら見上げた空にシロは、白く輝く月を見付けた。

「……月…?」

 煌々と照る月は、眼下に広がる景色を白く染め上げる。だがそのように明るい月が出ていること、それ自体がシロには違和感があった。

「待って……トキさんは俺が意識を失っている間に1ヶ月が経ってるって言ってたよね。俺が家を出た時はまだ秋だったから……つまり」

 目の前に広がる海にはまだ、冬が到来して1ヶ月経っていないのではないか。
 実家で暮らしていた時、父が教えてくれたことが脳裏をよぎった。レース・プーブリカ共和国では10月になると雪が降り、そのまま降り積もり続ける。しかし12月になるとさらに気温は下がり、あまりの低さに雪もまともに落ちてこなくなるのだ。それと同時に、北部にある首都には嵐が到来する。強い風が積もった雪を巻き上げて、ジェット気流を起こすのだ。こうなるともう鳥さえも空を飛べない。

 ――シロ、よく見てごらん。白く輝く月は、冬が始まったしるしだよ

 嵐がまだ起きていない。明るく輝く月は、初冬の証。ならば海も、表層が凍っているだけで海底までの全層が凍ってはいないのではないか。

「……いける…?」

 じっと下の氷盤を見つめる。静かな海は、その正体をシロに明かさない。
 一か八か。どうせここにいたってこのまま凍死するか、殺されるかするだけだ。ならば。
 えいやっと勢いを付けて真下に向かって飛び降りる。身を切る風の冷たさ。そして、強く叩き付けられる感触の後にバキッと割れる音がして、シロは一気に水に沈んだ。


 やった凍ってなかった、と思ったのは一瞬で、あまりの冷たさに一瞬で手足の感覚がなくなった。滅茶苦茶に手足を振り回して泳ごうとしたけれど、身体も服も重くて全然浮き上がらない。必死に暴れているうちに肺の中の酸素がなくなって、シロはどんどん追い込まれていった。
 冷たいという感覚さえなくて、ただひたすらに切られるように痛い。息も出来なくて、腕だって満足に動かなくて、一気に疲れのようなものも出てきた。だるくてしんどくて、そういえば何も食べていないとか、余計なことばかり考える。
 海の中から見上げた上方には、さっき見た白い月が見えるような気がした。


 がしっと掴まれた瞬間、痛いと瞬時に思った。その瞬間に、自分が意識を失っていたことを理解する。それから浮き上がっていくような感じがして、でも同時に、逆に下に落ち込んでいくような気もして、上下の感覚が怪しくなっていく。ごぼっと水を吐き出した時になって、ようやく海中から引き上げられたことを実感した。

「おい、大丈夫か!」

 げほげほと噎せるシロの背中を太い腕が叩く。叩かれる力の強さにさらに噎せながら顔を上げたシロに、叩く腕が止まった。
 げふっと最後にもう一度水を吐いたシロを慌てて毛布でくるんでくれたそのひとは、カチカチと歯を鳴らすシロの顔を覗き込んできた。

「冬の海に飛び込む馬鹿がいると思ったら、あんた……シロちゃんか……?」

 呼ばれた名前に顔を上げる。生理的な涙で曇る瞳を何度も瞬きをして晴らすと、そこには馴染みの漁師のいかつい顔があった。

「スミさん……?」

 シロの店に魚を卸してくれる、シャチの漁師がそこにいた。

「シロちゃん、今までどうしてたんだ?クロ君が、何度も何度も『シロさん見かけませんでしたか』って市場まで捜しに来たぞ」

 ユキが記憶喪失になったこと、そしてそれに伴ってしばらく店を休むことを告げに行ったときがスミと会った最後だ。その時は、顔を歪めながらも静かに頷いてくれた男が、今は戸惑いもあらわに覗き込んでくる。
 首都に知り合いの少ないシロにとって、数少ない馴染みの顔だ。その中に紛れもない心配が見栄隠れするのを目にした途端、シロの目にブワッと涙が溢れてくる。

「スミさん……おれ……」

 死ぬかと思った、という最後までは言葉にならず、ただただ泣き出したシロにスミはわたわたと慌てて、毛布をたくさん引っ張り出してきてはさらに巻き付けてくれた。いい年のおっさんが慌ててくれる様に、少しだけシロの心が安らぐ。それからもスミは何度も何度も背中をこすって、シロを泣き止ませようとしてくれた。

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