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■ それは陽だまりに似た 3

 病院が先だと主張するスミを何とか説き伏せて、シロは自宅へと帰り着いた。
 送ってくれたスミは、支度が終わったら病院に連れて行くと主張して、家の前に止めた車の中で待機している。心配してくれる気持ちをありがたく思いながらも、シロはどうしても病院より先にユキの顔が見たかった。

 ──ユキ……

 不安と恐怖と、でも安堵と喜びと。複雑な感情が交錯して高鳴る胸を押さえつつ呼び鈴を鳴らす。
 聞き慣れた音が響き渡って、……だが幾ら待っても応答がなかった。
 どくん、と心臓が一つ大きく鳴る。もう一度鳴らす。それでも応答はない。震える右手から濡れた包帯をむしり取って、生体認証システムにかざした。
 カシャン、と小さな小さな音がして、システムがシロを感知する。瞬時に瞳の虹彩や行動認証、生体反応まで確認して、やがて扉は開いた。
 ほっとため息をつく。シロの認証が抹消されていなかった。それだけのことなのに、招き入れられているような気がして喜びが胸に満ちる。

「ユキ……?」

 寝ていて呼び鈴に気づかなかった、なんてことはユキに限ってあるはずがないと思いつつ、扉の向こうに呼び掛ける。開けた向こうは真っ暗で、ここに今、誰もいないことは一目で分かった。
 照明を点灯させながら、久々の我が家に足を踏み入れる。ユキとシロが暮らした家。そこは、シロが最後に目にしたその時から何も変わってはいなかった。
 ソファもテーブルも、食器棚やその他家具も全てそのまま。畳んで掛けたブランケットまで全てがそのままだった。

 何一つ変わっていない。むしろ、変わらなすぎた。シロが私物をまとめてこの家から出て、例の地下本部に投げ込まれている間に1ヶ月が経ったというトキの言葉が本当ならば、ユキはあれからここで1ヶ月を過ごしたはず。なのに1ヶ月の間、誰も足を踏み入れなかったかのように、全てがシロが置いていったその時のままだった。
 二階に足を向ける。まず最初に目についたのは、ガランとしたままのシロの部屋。シロが残した空間は、そのまま何にも埋められることなくそこに在った。カタン、とシロの立てる音だけがだだっ広い空間に反響する。
 寝室、そしてユキの部屋へと歩を進めたシロは、そこで思わず立ち止まった。

 ──金庫が、開いてる……

 この家に初めて案内された時、ユキが何も入っていなかったその中を見せてくれた。その後、ディーノの契約約款だとか税務書類だとか様々なものをそこに収めたけれど、ユキがいつも出し入れをして管理してくれたから、シロ自身は特に金庫に用事もなくこれまで過ごしてきた。
 いつもきちんと閉めてロックを掛けていたユキ。それが開きっぱなしになっているなんて、何か、閉め忘れるような急ぎの仕事があって慌てて出たのだろうか。でもユキに限って、という思いが拭えない。家の中に生活感がまるでない事と相俟って、嫌な感じしかしなかった。

 近づくたびに、コトコトとトキのブーツの靴底が床材を叩く音が大きく響く。ごくり、と唾を飲み込んでシロは金庫の取っ手に手を掛けた。
 四段に仕切られた棚の中には、きちんとファイリングされた書類が一つ一つ積まれていた。一番上の棚のファイルを手に取ってみると、そこにはディーノ関係の書類。同様に、この家の利権関係の書類やユキの仕事関係の書類などが、わかりやすくまとめられている。
 几帳面なユキの性格を思い出して、自然とシロの口元が綻ぶ。雇用契約を交わす際にクロが持参した履歴書もちゃんと取ってあるのを、懐かしく思いながら見る。
 特に盗られたものもなさそうだと、扉を閉めようとしたシロの目に一つの箱が止まった。


 幼稚園生が“おどうぐばこ”と言って使用するような、平たい蓋付きのデスクトレイ。これも何かの書類だろうかと一瞬思ったが、金庫の中でそれだけ蓋付きの箱というのも妙だ。なんだろうと思い蓋を開けたシロは、その中身に思わず目を瞠った。

 その中は、金庫の整然と整理された様子とは打って変わって、酷く雑然としていた。
 毛糸で作られた人形や可愛らしいリボン、キラキラしたお菓子の包み紙、片方しかない手袋やバラバラの絵の具、延長ケーブルや手紙など。一見して、不要物を手当たり次第投げ込まれた廃棄ボックスのようにしか見えない。けれどその一つ一つを見ていくうちに、シロの目に涙が浮かんだ。
 毛糸で作られた人形は、ユキが“丸耳”といじめられていた頃にシロが作ったものだ。白い丸い耳の猫の人形。三角のピンとした耳の自分もユキのような可愛い丸い耳になりたかったと言って作って見せたら、ユキが酷く気に入って欲しがったのだ。15年近く前にあげたそんな人形のことなど、見るまでシロは忘れていた。
 綺麗な色のリボンも、キラキラしたお菓子の包み紙も。絵の具も、延長ケーブルも手紙も、全てシロがユキにあげたものだ。
 ユキと二匹で分けたはずの手袋の片方は、シロはとうの昔に捨ててしまった。手が大きくなって手袋が入らなくなった頃、ユキもきっと捨てただろうと勝手に思って。なのに、ユキはちゃんと取ってあった。こうして見つめていると、その時のことを思い出す。手袋をユキと二匹で分けて、素手のままの手はユキと繋いでいつも帰った。ユキの手は小さくてもちゃんと温かくて、繋いだ手は真冬でもちっとも寒くなかった。

「ユキ……っ」

 涙が次から次にこぼれる。止まらなかった。


 プルル、と軽快な音が鳴り響き、思わずシロは飛び上がる。泣きじゃくっていた涙も一瞬止まった。

「え……っと……あ、そうか。トキさんから借りた端末か」

 万が一のために持って行けと言われて、貸して貰ったものだ。それが耳慣れない音で鳴っていた。画面の表示によるとそれは、登録のない端末からの着信らしい。

「出ていいのかな……もしもし?」

 躊躇いながら応答した耳に、久方ぶりの懐かしい声が流れ込んできた。

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