■ 贈り物に愛を添える 3
「ほら」
五年前の雨の日に作ってくれたのと同じオムレツ。立ち昇る匂いに鼻が勝手にひくひくと動く。胃が刺激されて、疲れているはずなのに奥底から、ぐぅ、と獣の唸り声が聞こえた。
「いただきまーす」
切り分けたオムレツをはぐはぐと食べる。そして、はふはふと湯気を吐くシロをトキは笑いながら見つめた。
「ちゃんと練習して作れるようになれよ。これは、お前にやるから」
「え?なんで?だってこれ、トキさんの料理だよ」
シロもディーノで働くうち、新レシピを考案したりして“シロの”料理というものをいくつか持っている。けれどトキの考案した料理をくれる、と言われたのは初めてだ。
「餞別だ。持ってけ」
その言葉にシロはぴたりと手を止める。しっぽまでピンと張ったのを見てとって、トキはニヤリと笑った。
「……知ってたの」
まだシロはトキに何も言っていない。けれど、さもあらんと言いたげにトキは大仰に肩をすくめた。
「幼馴染が帰ってくるって一昨日言ってただろうが。それで昨日は丸一日休んで、今日になったら急にオムレツ作れって言い出すんだから、気づくなって方が無理だ」
何て言い出そうか悩んで平静を装っていただけに、少しばつが悪い。口をへの字にして俯いたシロの頭をトキの大きな手が撫でた。
力なく垂れていたシロのしっぽが、嬉しさを隠しきれずに少しだけうごめく。
「ここを出るんだろ?」
「うん……首都で一緒に暮らそうって、言われてる」
ユキの就職先は国の中央機関だそうだ。首都に居を構えざるを得ないユキの側にいて欲しいと昨日言われた。今日はその話をするために、ユキは一人でシロの両親に会いに行っているはずだ。
「首都か……昔一度行ったきりだけど、端から端までピシッと整ってて俺には居づらい街だったなあ……。けどまあ小綺麗な街だから、お前には暮らしやすいかもな」
ぱたり、とトキのしっぽが一度だけ床を叩く。そのまま沈黙を保って巻き付いてきてはくれないしっぽをじっと見つめて、それからシロはトキに向き直った。
「おれ、こういう時、なんて言ったらいいのかわかんないけど」
考えはまとまっていない。けれどどうしても、トキに伝えたい。向かい合って改めて見つめたトキの瞳は店の落とした明かりの中で、どろりと甘露のように甘く見えた。
「おれ、この店も、ここに来るお客さんも、トキさんの料理も、トキさんと過ごす時間も、みんなみんな大好きだよ」
トキが形作る全てが大好きで、だから本当は離れたくない気持ちがあるのだという思いは、少しでも伝わるだろうか。
シロの言葉を受けてトキは「そりゃあよかった」と言って笑った。
「でも、ここを出ようって思えたんだろ?ようやく結論が出て、よかったじゃねえか」
くしゃくしゃと髪を掻き回す手はこんな時でもあたたかい。
「うん。……ありがと、師匠」
トキの手に頭をこすりつけたシロの目からは、はらはらと透明な涙がこぼれた。
シロがこの町を出たら、ほどなくしてディーノは閉店するはずだ。それは予想ではなく、確信。
この町に店を出して七年。常連客を抱え経営も軌道に乗って、何の苦もなく店は続いているように見える。けれど、『気が向かない』という理由で店を臨時閉店にしている間、トキがひたすら新しいレシピを作り続けていることをシロは知っていた。
休みにしたのに働くなんて、やっぱイヌ科はワーカホリックだなぁと最初は呆れていただけだったけれど、次第次第にわかってきた。新レシピのほとんどは材料費という点でも、また工程作業や工程時間という点でも、今のディーノでは決して出すことの出来ないものばかり。
ここではないどこかで、何かをするための準備をトキは進めている。
その“どこか”で“何か”を一緒にやろうと誘ってくれたら付いて行きたい気もしたが、トキがシロを誘わないだろうことをシロはちゃんと理解していた。トキは、たった一匹でこの町に来たのだ。ならばきっと、出て行く時も一匹と決めているに違いない。面倒ごとが嫌いで、でも存外真面目なトキが、トキの人生にシロを巻き込むことを望むわけがないのだから。
一緒に行けないのならばせめて、トキの足枷にだけはなりたくなかった。トキは多くのものをシロに与えてくれて、シロが自分の脚で立てるまで支えてくれた。だからシロは、“自分はもう大丈夫だから、心配しないで、トキのやりたいことをやって欲しい”と伝えるために、遠くない将来、この町を出ようと決めていた。
優しくて、ちょっとだけ煩わしくもあって、でも居心地のいい地元の町。
ユキのためにとこの町に縛られていたシロが、今度はトキをこの町に縛る、なんてそれだけは絶対にダメだから。
そんなシロの思いをユキは知らない。けれど、ずっとこの町から離れなかったシロを昨夜、躊躇いもなく首都へと誘ったのは、ユキが誘えばシロは断らないという確信があったからというよりは、自分の中の何かを察したからだろうとシロは思っている。
新しいメニューの話やレシピの話、ディーノのお客さんの話を電話でするたび、明るい声で相槌を打ってくれながらも、ほんの少しだけ硬くなるユキの声をこの五年ずっと聞いてきた。
ユキほど勘の鋭いいきものを、シロは他に知らない。
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シロがユキと共に地元を出た数日後、この町唯一のまともなレストランであったディーノは突然閉店した。オーナーシェフのトキの行方は杳として知れなかったが、三年後、有名料理評論家が催したコンペティションで優勝金を掻っ攫った料理人の名として、新聞に小さくその名が載った。しかしその後は再び行方をたどることはかなわなくなり、手に入れた軍資金を元手に彼が何をしようとしたのかは謎のまま。けれどシロは、辺鄙なド田舎で好き勝手に料理を作っている彼の姿を想像する。
トキ特製のオムレツは、首都に来て少ししてからシロはようやくちゃんと作れるようになった。けれど作れるようになったらなったで、大事なそれを気に入らない客にまで食べさせようと思えない。だからシロは気に入った客にしかそれを作らないことにした。客は崇めるべき神様じゃない、という偏屈なこだわりも一緒に師匠から継いだのだと自分では思っている。
今のところ、トキのオムレツを食べる栄誉に浴しているのはユキただ一匹。失敗ばかりだった頃からユキは、目も当てられないほどにひどいそれを一口一口大事そうに胃に収めて、ぱたぱたとしっぽを振ってくれた。そしてお腹の中の獣をゴロゴロと鳴かせる。
そんなユキを見る度シロは、トキがくれたものの大きさを実感する。
首都に来て一年が経った頃、大通りから一本入った落ち着いた通り沿いに、シロは小さな店を構えた。ユキにも共同経営者という形で出資してもらって、営む店の名前は“ディーノ”。
もちろん元祖ディーノの許可なんて取っていないけれど、暖簾分けされたのだとシロは勝手に言い張っている。
贈り物に愛を添える <完>