top of page

■ きみを縛れたためしがない 7

 パンダの子はやっと毛が生え揃った程度らしく、全く人語を解さなかった。
 ただ、一目見てシロは敵ではないと認識したのか、シロにぺったりとへばり付いて離れない。無理に離そうとするときゅうきゅう鳴いて嫌がる。

「やばい可愛い……昔のユキみたい……」

 自分の腹にしがみつく子パンダを見て、シロは顔を赤くして身悶える。そんなシロを、クロは生ぬるい目で見つめた。

「どんな昔でも、ユキさんはこんなじゃないでしょ……」

 シロの目が腐っているようにしか思えないクロである。

「いや、こんなんだったんだよ。さすがにユキは3つの頃から、飛び抜けて賢かったけど」

「その時点でもう違うし……」

「でもこんな風にさ、俺にくっ付いて来たんだって!」

 ユキは物心ついた頃からシロが好きで、それはもう純愛というには度を越した盲愛っぷりであるということはクロもよく知っている。しかしクロから見るとユキのシロへの執着心は、シロの言うような、そばにいて欲しいと願う依存性のものとは違うように見える。どちらかというと、自分の気に入りの玩具を誰にも触らせたくないと思うのに似た独占欲であるように見えた。幼い頃のユキが、もしも本当にシロの言うようにシロにべったりだったとしても、子パンダが今シロにへばり付いているのとは別の意味合いを持っていたに違いない。シロが知らないだけで。クロは生ぬるい視線を送りながらそんなことを思う。

「まあ、それはどうでもいいです。それより、このパンダいつまで預かるんですか」

 パンダを腹に抱えたシロはぬいぐるみを抱えた子どものように幸せそうだが、子どもを抱えたままでは仕事にならない。ディーノはリストランテであって託児所ではないのだ。

「それなんだよな……。もうすぐ軍のひとが来るはずだから、サッカーボールじゃなくてパンダの子でしたって話して、親御さん探してもらわなきゃ」

「親御さん、ね……」

 迷子の子パンダなら親御さんを探して引き渡すのが正しかろうが、空から落ちてきた子パンダの場合はどうだろう。
 パンダは世界でも数の少ない稀少種だ。特に子どものうちは保護対象になっているはず。なのにその子パンダが空から落ちた……。

「シロさん、もしかしたらその子…」

「あ、来た」

 子パンダを抱っこしたまま、二階の窓辺から階下を見下ろしていたシロが声を上げる。同時に、バタンバタンと車のドアを閉める音がする。
 シロの隣から見下ろすと、黒塗りの車と数名の男たち。車に掲げられているのは、双頭の鷲の紅き旗。レース・プーブリカ共和国軍の軍旗に間違いない。だが。

「……あいつら、鳥じゃない……?」

 空軍が来ると思っていたのに、上から見る限り、下にいるのは豹、貂、熊、コヨーテ、ジャッカルなどの陸上肉食獣。

「まさか……エヘールシト……?」

 陸海空の中でも荒っぽいことで有名で、かつ三軍を束ねる陸軍、通称エヘールシトのお出ましである。

「えー。なんで陸軍が来んの?」

 首を捻りつつも階下に降りようとするシロを、クロは無言で引き止めた。見下ろすクロの目に、爪を研ぎ牙を剥く彼らの姿が映る。

「クロ?」

 獲物を狙う肉食獣の目。災害助成金交付のために来たにしては不自然なほどの殺気。だが、すでに窓辺を離れて階下に続く階段に向かおうとしていたシロは、それに気づいているのかいないのか、無垢な表情でクロを見つめた。

「……シロさん」

 空から落ちて来たパンダ。突然やって来た陸軍。牙を剥く彼ら。昨日の奴隷商人。シロを狙ったネズミ男。昨日と同じこの時間。ユキの不在。どれをとっても嫌な予感しかしない。

「今、トンズラこいたらやばいですかね」

 陸軍の反感を買うのはまずい。けれど、応対に出てしまっていいものか。
 クロの問いかけにシロは首をひねって「んー……」と3秒ほど唸った後、コキリと首を真っ直ぐに立て直して、あっさりと告げた。

「クロの怪我を医師に見せに行ったんじゃないかな。その際、預かってる子どもを一匹にできないからって連れてった」

 そう言ってにっこり笑うと、すたすたと歩いて表通りとは逆の裏通りに面した窓の前へ行く。勢い良く開けて窓枠に脚をかけた。
 そこでクロの方を振り返り、人差し指でちょいちょいと招く。

「ほら、トンズラこくんだろ?せっかくだし、遊んでこよう」

 にっ、といたずらを思いついた子どものような顔で笑う。それから、子パンダを抱えたまま軽々とジャンプ。隣家の屋根に降り立ったシロは、クロを見上げて「早くしろよ」と言いたげにしっぽをぴこぴこと動かした。

「……っ、ふは」

 滅多なことでは崩れないクロの表情が緩む。ディーノでウエイターとして働き始めてもうすぐ一年。雇い主の意外に豪胆な一面を初めて知った。

   +++

「とりあえずユキさんに連絡取って、エヘールシトのことを確認してもらうのがいいと思うんですけど」

 トンズラこいている身の上で、わざわざ居場所を特定できるようにすることもないだろうと思い、端末の電源を落としてのんきに街を歩いているシロとクロである。中央機関に連絡を取るには、どこかの端末を借りねばならない。

「そこらへんのホテルの端末でも借りる?」

 子パンダを背中に背負うことにしたシロは、腹に抱えるより楽なのか、スキップでも踏みそうな軽い足取りで歩く。屋台で買ったココナツミルクを啜りながら、背後のパンダの口元に差し出してみたりしている。子パンダは、少し飲んでみてからけほけほとむせた。それを見てシロは、ごめんごめんと言いながら笑って頭を撫でる。撫でられた方はシロの首筋に頭をこすりつけてきゅうきゅう鳴いた。

「まあ、それでも」

 いいんですけど、と言いかけた言葉がクロの喉奥で消える。嗅いだことのある匂いが鼻腔を掠めた。
 慣れ親しんだ臭いではない。一度しか嗅いだことはないけれど、忘れられない。懐かしいというよりは古臭い、カビ臭いような。

「……昨日の、ネズミ」

 あの古臭い燕尾服の奴隷商人から感じたのと同種の臭いだった。姿は見えないけれど、前方の角から漂ってくる。

「シロさん」

 名前を呼ぶと、彼は言いたいことをすぐに理解したようだった。

「裏入る?」

「はい」

 話が早くて助かる。頷いた2秒後、クロは脇道に入ってから駆け出した。すぐ後からシロが付いて来る。気配はするが彼の身のこなしは軽く、足音がまるでしない。
 バタバタと複数の足音が先ほどの角からこっちに向かってきた。やはり狙われていたか。どうやって巻こうかと一瞬考えて速度が弱まったクロの手を、シロが強く引いた。

「ぅ、わっ」

 走りながら塀に脚をかけたシロが勢いを付けて跳躍する。引っ張られるまま、クロは塀を越えてビルの上に引きずり上げられた。

「こっちのが早い」

 屋根の高さまであっという間に登っておいて、いとも容易くそう言い、シロはそのまま音もなく走る。
 身の軽さに加えて、恐ろしい程のジャンプ力。そして、包丁より重いものは持ったことのなさそうな細腕の癖して意外と力も強い。

 ──シロさんのこと、ただの猫かと思ってたけど。

 ビルのヘリまで行って、振り向いてクロを見る目はいつもと同じ。来ないのかと言いたげに動かすしっぽも。

 ──確かに、猫だけど。

 ただの猫、というにはあまりにしなやかだった。

​□■ ← ・ → ■□

bottom of page