■ きみを縛れたためしがない 11
「首都から連れ出されちゃうと、ユキが追ってくれても間に合わなくなりそうだからさ。ちょっとここらで一旦戻った方がいいと思うんだよね」
自身は、横転した車から自力で抜け出したらしいシロは事も無げに言う。
漁港から市場に行く途中で『市場まで行くと傷んじゃいそうだからさ、一旦荷物置きに戻った方がいいと思うんだよね』と言った時と同じ口調。あっけに取られつつ周りを見渡すとそこは確かに首都の外れの寂れた地域で、後少しで隣域に入ってしまうところだった。
スモークが貼られた車内で、車の震動音と車輪の回転数からそれを察したというのか。
焦りも不安も動揺も、微塵も感じられないシロの様子にクロは言葉を失う。その手にあるものを見て、さらに息を飲んだ。
「……ん?ああこれ?」
クロの視線をたどって自分の右手に目をやったシロは、軽くそれを振りかざしてみせる。太陽の陽にキラリと光る軍刀。それをまるで旗か何かのように肩にかついで、シロはにっと笑って見せた。
「俺が乗せられた車にいた貂のオッサンさ、軍の御前試合で優勝したほどの腕前なんだって。それを見せてやろうかってねちねちねちねち言うからさ、そういうのは一般人に振りかざしちゃダメですよって言って取り上げちゃった。そしたらみんなが暴れて、車傾いちゃって」
その結果車が横転したのだと、シロはあっさり告げた。クロの車はその巻き添えになったらしい。
肉食獣で占められる軍部は、己の爪や牙を頼みとするものが大半で、剣や銃などに頼るものはほとんどいない。しかし獣種としては低位のものが成り上がろうとした場合に最も有効なのは、剣技や射撃技術を鍛えることだった。獣本来の闘争本能を技術でカバーする。拘束時に指揮を執っていた貂は、剣技により豹や狼などの猛獣と渡り合ってきたというわけだ。
その実力を笠に着て一般人をいたぶるなど軍人の風上にも置けないが、しかし護送中の容疑者に軍刀を奪い取られたとあっては、彼らの頭に血が上るのも道理である。眉を顰めたクロに、無茶をした本人は動じる様子も見せない。
「とりあえず、来た道戻るのが一番いいと思う。ちょっとユキジュニアを預かって」
そう言って、事故に驚いたのか硬直したままの子パンダを背中から下ろし、クロに抱かせる。ユキジュニアって何、と問いたかったが、言葉はクロの舌の上で固まったまま出ては来なかった。ようやくこわばりか解けたのか、きゅう、と小さく鳴いた子パンダの頭を撫で、シロはゆっくりと振り向く。
ヒュン、と鋭い風切り音が耳に届く。横転した車から抜け出したらしい陸軍の男たちが手応えを確かめるように手を振り、足を振りかざしていた。
「……」
無言で近づいてくる男たちは四匹。いずれも豹、虎、狼、熊といった大型肉食獣だ。戦い慣れた彼らの殺気はクロのところまで届いてきた。
「おうちに帰らせてくださいって言っても、ダメなんだよね?」
にこ、と笑うシロの言葉に、叩き付けられる殺気が増す。次の瞬間、男たちが動いた。
砂利を蹴る小さな音にシロは反応し、身体を反転させる。身体を捻り、向かってく狼を紙一重で避け、続いて打ち込んでくる熊の爪を軍刀で跳ね上げた。ガキン、という鈍い金属音がする。だがさすがに力の差は大きく、あっという間に押され気味になったシロを狙って、豹の爪が迫る。
「シロさん後ろ……!」
クロの声にシロは、ふっと身を沈めてあっさり軍刀を放棄した。圧力をかけていた先を急になくして、熊の足が逆にもつれる。飛び退りながら左手を地面について体勢を立て直したシロは、その反動を利用して、迫り来る豹を後ろ足で蹴り飛ばした。
「……っ!」
だがシロの攻撃はいずれも軽く、致命傷には至らない。予想外の反撃を受けて、逆に四匹の目の色が変わった。口角を上げてにいっと笑い、闘争本能を剥き出しにした男たちに、シロは心底嫌そうな顔をする。
「うわー……」
ドン引きするシロに、まず二匹が同時に飛びかかる。豹の低い構えを上に逃げる。その動きを予想していた狼が、上から飛びかかりながらシロに牙を剥いた。
「うぁっ……と」
反射的に身体を捩ったシロの脇腹を狼の牙がかすめた。よけながらも背後の殺気に反転し、狼の牙と豹の爪の間を逃げる。豹と睨み合い状態になった狼の牙の勢いは削がれる。けれど隙を突いた有利な一撃は完全には止まらず、シロの左肩に深く刺さった。
「ぃっ……」
奥歯を噛みしめて叫びを殺し、シロは圧し掛かるその腹を蹴り上げる。ごろごろと砂利石の上を横転し、彼らが体勢を立て直すより早く勢いよく起き上がった。
「クロ、逃げるぞ!」
「っえ、あ、……!」
言い捨てて駆け出すシロの後をクロは子パンダを抱えて慌てて追う。逃がすか、という叫び声と共に複数の気配を背後に感じた。
片手で押さえたままのシロの肩口からはじわじわと染みが広がっていて、左腕一本が血に染まろうとしている。なのにシロの逃げ足は速く、音もなく馳せた。だが背後から迫り来る追っ手は離れてもまたすぐに近づき、遠ざかる様子はない。
「っあー……。やばいなこれ」
郊外をジグザグに走りながらシロは淡々と呟く。ちらりと後ろを横目で見て、すぐにまた前を向いてからクロの名を呼んだ。
「二手に分かれよう。悪いけどユキジュニアお願い」
それに対してすぐに反意を示したのは子パンダで、きゅう、と怒ったように鳴く。それに続いて、クロもすぐに口を開いた。
「嫌ですよ!シロさん囮になるつもりでしょ」
二匹に反抗され、シロは苦笑に近い笑みを浮かべる。
「別にそういうわけじゃないって。たださ、肉食獣は血の臭いをたどるから絶対に俺の方に来る。俺が発信器になっちゃってるんだって」
「だとしても、中心部まで逃げればいい話じゃないですか。きっとユキさんもこっち向かってるし」
「まあ、それはそうだと思うんだけど──」
ふっと途切れたシロの言葉に、隣を向こうとするより早く、クロの身体は不自然に跳ねとばされた。
「うわっ」
子パンダを庇いながら転がったクロは、一瞬目の前が暗くなるのを感じる。ぎゅっと目を瞑ってから再び明けた視界には、片膝を付いたシロの姿が映った。
「シロさん──」
血に染まった左腕を不自然に脇に垂らし、右手で脇腹を押さえる。クロと子パンダを庇ってさらに怪我をしたのはすぐにわかった。
じゃり、という音と共に陸軍の男たちが近づいてくる。ずらりと並んだ肉食獣の瞳の中に陽炎のような光を見た。
「軍部への反逆行為、並びに公務執行妨害だ」
ねばつくような声で貂が告げるのを遠く聞く。身体から力が抜け、舌が喉に貼り付いたまま動かない。真っ白なはずのシロの毛が、赤く赤く鮮血に染まっていく。
「──死ね」
静かな声に顔を上げた時には、男たちの拳が間近に迫っていた。血まみれの右手をそれでも伸ばし、シロがクロを庇おうとする。その手の動きをクロはやけにゆっくりと感じた。
ギィンッ──!
甲高い金属音に似た音が響く。
「──ぐあっ!」
襲いかかってきた男たちの身体が一斉に跳ねとばされ、ぱっくりと肉が裂ける。そこから血が噴き出すのがスローモーションのように見えた。もつれるように倒れ込む面々を他所に、彼らを退けた黒い影がゆっくりと立ち上がる。
ブレーキ音と共に複数の車両が到着する。バタンバタンという激しい音を立てて車から黒服の者たちが降りてきて、呻く陸軍の男たちを次々に拘束した。
「──怪我は」
一撃の元に六匹を倒した黒い影は、倒れたままのクロと、その前に膝を付いたシロの前に来て片膝を付く。端整な顔立ち、すらりとした引き締まった体躯、宝石のようなスカイブルーの薄い瞳。言わずと知れた、もう一匹のディーノのオーナーの姿がそこにあった。