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■ うそつきの言い分 5

 翌日、アオは営業終了間近にディーノを訪れ、最後の客が帰るのを待ってクロと二匹、シロに話があると切り出した。シロは少し不思議そうな顔をしたが、すぐににっこりと笑って手ずからコーヒーを淹れてくれた。その仕草はとても穏やかで、お茶うけにとその日のデザートもあれこれ盛り合わせてくれる。そのせいもあって、重く苦い話をしようというのが場違いに思われるほど和やかで穏やかな時間が流れた。
 儚げに見えたシロは、話してみるととても気さくな人柄で、アオがユキに叱られた話からくだらない雑談まで持ちネタを披露すると、それにけらけらと声を上げて無邪気に笑ってくれた。クロならば眉を顰めるような話にも乗ってくれて、クロが口を開くまでアオは、何のために来店したのか忘れた程だった。

「……シロさん」

 クロがシロを呼ぶ声で本来の目的を思い出したが、それはそれでアオは居心地が悪くなる。
 ユキの浮気騒動の顛末を見られるかと野次馬根性で乗り込んできたのだが、シロと話すうち、そんな気分ではなくなってしまった。

「何?」

 無垢といってもいいほどに邪気のない微笑を浮かべるシロにアオはばつの悪い気分を味わったが、クロは気にも留めずにユキの話を始める。
 話を聞いている最中も、そして話が終わってからもシロの態度には特に変化はなく、アオの方がむしろそわそわとして落ち着かない。静かに話を聞き終えたシロは少し目を伏せて、二匹に、打ち明けたことへの謝辞と気を遣わせたことへの謝罪を述べた。

「ユキがそのひとのことをどう思っているのかは、ユキに聞いたわけじゃないし、自分の目で確めたわけでもないから何とも言えないけど……」

 そう前置きをしてから、シロは伏せていた顔をあげる。

「たぶん、二匹が気にしてくれてるようなことは、ないと思う」

「ないって……なんで言い切れるんですか」

 挑戦的な問いかけをしたクロをアオは思わず目で咎める。だがクロはそれに知らんぷりをして相手にしない。そんな二匹の様子にシロは少し苦笑してから、自嘲気味にぽつりと漏らした。

「昔っからユキと意見合わないことが一つだけあって。たぶん今回も、それだと思うんだよね。……そうだ、クロとアオはどう思う?」

 少しだけ瞑目した後でシロは、苦しさを笑って誤魔化す時のような顔をして、無理に繕った笑顔を浮かべて声だけは楽しそうに語り始めた。

「継母と義理の姉たちにいじめられて、下女のような生活の中で泣き続けるしかない“灰かぶり姫”と、おばあさんの皮を被った狼と共に、ワインと干し肉の食卓を囲む“赤ずきん”。もしもどちらかの立場に置かれるとしたら、クロとアオはどちらの方がましだと思う?」

 突拍子もない問いかけをしたシロは、しかし二匹の答えを待っているようでもなく、それでいて静かな表情の奥に揺らめく炎のような強さが見え隠れする。

「おれはね、悪意は悪意として差し出された方が気が楽だと思うんだ。そりゃあ灰かぶり姫は、助けがくるまではずっと敵意にさらされ続ける日々でつらかったと思うよ?でもそれでも優しかったおばあさんの血と肉を、ワインと干し肉として食べさせられるよりは百倍ましなはずだ」

 不気味な寓話を淡々と語るシロはわずかに口角を上げていたが、その目からは段々と微笑が薄れていく。そこに好戦的な光が宿っていることに気づいた途端、アオの背筋はぞくりと震えた。

「でもユキは違う。ユキは、悪意を好意で装飾するのがとても上手いんだよ。親しげな態度で近寄って、身喰いをさせる」

 そこで切った先の話は言われずとも容易に知れた。
『今回のこともそれと同じ。ユキは、彼女に好意があって親しげにしているわけじゃない。むしろ悪意を持っているからこそ親しげな態度で近づく。優しいおばあさんの血肉を騙して食らわせるために』
 香ばしいはずのコーヒーが胃に重く感じられる。食べ終わった後の皿に残った、おいしかったはずのクランベリーソースに吐き気を覚えた。

「タチ悪いすね」

 無表情のまま端的に感想を述べたクロに、シロはにこりと微笑む。そのまま立ち上がって皿を片付け始め、クロも手伝おうとその後を追っていった。
 一匹残されたアオは、そんなシロの後ろ姿を目で追いながら、圧倒されつつも感嘆している自分の奇妙な感情に気づいた。
 シロの話は、ユキやクロのような率直な物言いと比べれば随分と回りくどかったが、しかし説明としては非常にわかりやすくとても理解しやすかった。そしてユキの真意はともかくとして、持って回った物言いの中でシロが、“ユキの心変わりなどあり得ない”ときっぱり否定してみせたことも理解していた。
 彼の説明通り、親しげに距離を詰めることが悪意の証左ならば、好意の証明は付かず離れずの距離。それはそのままユキとシロの距離感となるわけで、シロは言外にはっきりと、ユキの心の奥深くにいるのは他ならぬ自分だと断言したのだ。

 ──なるほど。

 クロはかつてアオにシロをというひとを、楽観的で正直、裏表がないひとだと言った。本能優位で直感で動くから、ここぞという場面にもかなり強いとも。
 確かにここぞという場面に強そうだ。正攻法で正面突破して、それでも勝ちをもぎ取ってくるタイプ。儚げだなどと思った印象は、今少し話をしてすぐに吹っ飛んでしまった。

 ──武闘派、か。

 シロをして、ユキより好戦的と評したクロの見立てはきっと間違っていない。

 

 


 その二日後、アオは職場で再びユキと女豹を見た。いつもならそそくさと立ち去ってしまうのだが、ふと昨日シロに聞いた話を思い出し、ユキの真意を探る目的でソファの陰で立ち聞きをすることにする。ユキと女豹はのんきにも、自動販売機の前で立ち話をしていた。
 改めて陰で聞いているとユキの物言いには常に微量の毒が含まれていて、致死量に達しない程度の毒薬を常に飲まされているようで、気づいてしまうと非常に気分が悪い。軽いウイットとも取れる物言いの中に忍ばせてあるあたりが巧妙だが、全く気づかず笑っている彼女にもまた吐き気を覚えた。よほど自分に自信があるのか、悪意を向けられるとは露ほども思っていないと見える。
 そんなことを思っていたから、その時、まるで手のひらを返したかのように彼がそれを明らかにしたことに一瞬アオの頭が付いていかなかった。

「一口飲まない?」

 自動販売機にコーヒーを買いに来たらしいユキに、外のカフェでコーヒーをテイクアウトして来た彼女が手に持っていたそれを勧めた。彼女にしたら、たぶん純粋にカフェのコーヒーの方が美味しいからという理由だったろうが、それに対するユキの反応は速かった。

「悪いけど、君が一度口をつけたものなんて気持ち悪くて飲めない」

 笑顔さえ浮かべて言われたその言葉に、彼女も一瞬、何を言われたのかわからないようだった。呆然とする彼女を同じ思いで見つめていたアオは、知らず知らずのうちに物陰から身を乗り出していたらしい。彼女の方を見ているようで見ていなかったユキとばっちり目があってしまった。

「……アオ」

 低い声で呼ばれた名前に急いで逃げようとするも、逃げ出す前に首根っこを掴まれて引き摺り出される。へらり、と笑ってみたがまるで効果はなかった。

「お前、盗み聞きなんてしてる場合か?」

 書類を作っても作っても、端からミスを指摘されて遅々として進まない作業に苛立ちを覚えて息抜きをしに来たのに、その先でついスパイ活動に勤しんでしまって、諸悪の根源に捕まってしまった。さっさと仕事に戻るぞと連れ戻されながら、ユキさんだってサボってた癖にとごちる。それを聞かれてジロリと睨まれたけれどその顔はいつも通りで、悪意を好意で粉飾するのを止めた心境の変化のようなものはどこにも見当たらなかった。

「ユキさんユキさん」

 首根っこを掴まれて連行されながら、アオはユキに話しかける。無言で落ちてきた視線が沈黙を促すものではないことに気づいて、気分をよくして続けて口を開いた。

「なんであのひとが口つけたもの飲めないんすか?」

 そんなアオに、じっとりとした視線を向けながらもユキは質問にはちゃんと答えてくれた。

「ひとの口腔内には400種類以上の細菌が30億を超える数存在する。彼女が口を付けたコーヒーなんて、彼女の細菌まみれだろう?しかも細菌は個体毎に保有数・種類が異なる上に、接触感染により増殖する。ということは、だ。彼女のコーヒーを飲むということは彼女の細菌を取り込むということになる。……ほら、考えると気持ち悪いだろう?」

 長々としたセリフをすらすらと、辟易とした表情で語るという偉業をやってのけたユキに、アオは、完璧主義者の潔癖症という感想を抱きながらその顔を見上げる。

「でもユキさんだって、シロさんとはちゅうとかするでしょ?」

 からかい半分で尋ねたアオをユキは思いのほか真剣な顔でじっと見て、それから厳かな声で静かに告げた。

「シロさんには、細菌とか、ないから」

 反論は許さないという威圧感を滲ませるユキにアオは絶句する。

「……まじすか」

 某然と呟いたアオに、ユキは地の底から響くような低い声で、ない、ともう一度言い切る。触れてはいけない話題に触れたと察したアオは、こわばりが解けた瞬間に話を変えた。

「ところでユキさん、ユキさんはなんであのひとに意地悪するんすか」

 不自然極まりない話題変換だったが、それは存外ユキのお気に召したらしく、ちらりと横目でアオを見たユキは少し楽しそうな顔をする。

「意地悪とは人聞きが悪いな。素直な意見を述べているだけだろう」

「でもいい人ぶってわざと意地悪なこと言ったりしてるじゃないですか」

 その言葉に、ユキは珍しく声を上げて笑った。それからニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
 ああこれがこのひとの本性だ、と確信できるようなタチの悪い笑み。

「未必の故意ってあるだろう?刑法第三十八条。殺害を積極的には意図しないが、結果的に死んでしまっても構わないとする認容。法律上は不確定的故意は罰せられることになってはいるが、それはその行為と結果の関係性が認められたらの話だ。実際にはその関係性が確認されなければ、罪にさえならない」

「……つまり、毎日微量の毒を盛って殺しても、死亡原因が他殺と認められなければ罪にならない、と?」

「簡単に言うと、そういうことだな」

 鼻歌でも歌いそうなほど明るい声で言って、ユキは足取り軽く執務室に向かう。デスクに押し込められたアオは上目遣いでユキの様子を窺ったが、いつもと同じユキだった。
 未必の故意。そう告げたユキは、この時すでに結果の発生を見越していたのだろうか。

 数日後、例の女豹は自身の手がけるプロジェクトを有利に進めるため、商談相手に談合を持ちかけたことが発覚して失脚、そこから芋ズル式に彼女に目をかけていた上司たちにも嫌疑がかかり、内部調査の結果、不正が次々と明らかとなった。その件をユキに尋ねると知らないと答えたが、手元の資料に目を落としたまま顔も上げずに「彼女に、君の担当する仕事はどれも大した成果を挙げないね、とは言った」とあっさり暴露した。
 有能かもしれないが腹蔵ありすぎるひとの下に置かれて二週間、アオは自社の気のいい熊の上司が恋しくなる。
 そろそろ社に戻してくださいとアオが言うと、ユキは「なら余計なことに気を回してないで仕事に集中しろ」と冷たく言い放った。

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