■ 愛してるって言って 4
「相変わらず、でっかい……」
秋の高い空に黒旗が映える。恐る恐る近づいたシロは、いつぞやと同じ無表情で受付に座っているワニ紳士に入館証を見せる。すると今度はあっさりと通された。ボディチェックも何もない。生体認証システムを通過した感覚すらなくて、こんな安易に通れてしまっていいのだろうかと首を傾げながら歩いていると、突然吹き抜けの上から声が落ちてきた。
「シロさん……っ!!」
驚いて顔を上げると、だいぶ上の方からユキが手を振っていた。
「今下りて行くから、そこにいて……!!」
言うだけ言って、すぐに姿を消してしまう。こっそり覗くつもりだったのに何故バレたのだろうと思っていると、軍靴の音を響かせて、ホールの向こうから制服姿のユキが姿を現した。
黒いネクタイをつけた白いシャツの上に、開襟の黒いダブルブレスト。黒で統一された制服がその長躯にぴったりと馴染んでいる。灰色がかったユキの銀髪が黒に映える。見るものに鮮烈な印象を残す、氷のようなスカイブルーの瞳との対比が鮮やかだった。
毎日見慣れている、毎朝送り出す時と同じ姿のはずなのに、シロは一瞬ユキに見惚れた。
「シロさん……来てくれるなら、連絡くれればよかったのに」
息を切らすこともなく駆け寄ってきて、それでも嬉しそうに目を細める。そんなユキの表情に、かあっと顔が熱くなってシロは思わず手の甲で口許をこすった。緩んだ口許を見られたくない。
「さっき入館証が届いたからさ、ちょっと使ってみようかなって」
ほんと、それだけで、と繰り返すシロの頬をユキが人差し指の先でちょんとつつく。ぴっ、としっぽを立てたシロを見て、いたずらっぽく笑った後でユキはすぐに破顔した。
「それだけでもいいよ。シロさんならいつでも大歓迎」
やけに嬉しそうなユキに、シロはちょっとだけ意外にも思う。
「ユキは……、俺がユキの仕事に関わるの、嫌いかと思ってた」
ユキは基本的に家には絶対に仕事を持ち込まないし、仕事の話もしない。それはリーネア・レクタの扱う業務は国家機密も多数抱えるからだとわかっているが、あまりの徹底ぶりに、ユキは仕事の話自体に触れられたくないのではないかと思っていたのだ。だから、ユキがリーネア・レクタの入館証を手配してくれたのも意外だったし、今日もユキに迷惑をかけないようにこっそり覗くつもりだった。
だがユキはシロのその言葉に少し複雑そうな顔をする。
「……シロさんが、俺の仕事のことを知ろうとしてくれるのが嫌ってわけじゃないよ」
「そうなの?」
見上げるシロをじっと見下ろしてから、ユキは少し眉を下げた。
「ただ、俺がしてる仕事は綺麗な仕事ばかりじゃないから」
「……っ、そんなの……」
「あ、エレベータ来たよ」
乗って、と促され、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
──どんな仕事をしていたって、何があったって、ユキのことを嫌いになったりしない。
そう言いたかったのに、いざ飲み込んでしまうと言うタイミングが見つからなかった。また、今更ユキもシロに嫌われる心配をしていない気もしてくる。結局シロは飲み込んだ言葉を舌の上で転がして、そのまま口にするのを諦めた。
通されたユキの個人執務室は、壁一面に資料が整然と並んでいた。その整理整頓の行き届いた様は、自宅のユキの部屋とほぼ同じ。
「一瞬、うちに帰ってきたような気がしたよ……」
そう言うとユキが苦笑する。社長椅子、と言えるほど豪勢ではない普通の回転する事務椅子がデスクの前にはある。それに腰をかけてシロがくるくる回ると、ユキは適当に遊んでてと言い置いてお茶を用意しに出て行った。
「端末いじっててもいいから」
しばらくは大人しく回転していたシロだったが、回り飽きたところで目の前の机に鎮座している端末に目を移す。触るとすぐにパスワードを求められた。
ユキのパスワード設定はいつも一定のパターンがあり、シロの誕生日やら個人ID番号やらに特定の日付を組み合わせたものを使用する。ユキがリーネア・レクタに就職を決めたのは3年前だから……と、3年前の年月にシロの誕生日を組み合わせれば案の定すぐに開いた。
見れば、トップ画面にリーネア・レクタの入り口で入館証を見せているシロのモニタリング映像と、同時に起動したらしい生体認証システムをからの警告画面が出ている。何の検査も受けずに通ったような気がしていたが、しっかり認証システムは作動していたらしい。シロが来たとユキにわかったのも、つまりはそういうことだったのだ。
認証システムはさすがに高精度のようで、同時にX線によるボディチェックも兼ねている。シロの体温や、適当にポケットに突っ込んできた財布までもが透けて見え、ネコ科 平熱、なんて表示が出ているのも面白い。あれこれとフォルダを開いたりしてみたが、無駄を嫌うユキの端末に面白いものなどあるはずもなく、少ししてシロはすぐに飽きた。
端末から手を離し、資料に埋め尽くされている部屋を見回す。
「ユキって、えらいんだなぁ……」
わかってはいたが、改めてこうして執務室を見ると再確認させられる。国のトップエリートだけが集まるリーネア・レクタにおいて、個人執務室を付与されるのは一握りの人間だけ。それが他ならぬユキであるという事実が何だか不思議に感じられた。
キコキコと椅子に悲鳴をあげさせて待っていると、ティーポットとカップを持ったユキが戻ってくる。香り高いお茶と添えられた簡単な焼き菓子は、休みの日にユキが自宅の小さな坪庭のテーブルに並べるものと変わりない。聞けば「私物だよ」という簡単な答えが返ってきて、リーネア・レクタの統括官のユキも、紛れもなくシロのよく知るユキなのだと思えて嬉しかった。
お茶を飲んで、お菓子を食べながら他愛ない話を語り合う。ユキは、シロが自分の執務室にいるのが嬉しくてたまらないと言いたげに笑ってくれて、そんなユキを見ているシロもまた嬉しい。お店であったことを話せば興味深そうに楽しそうに聞いてくれる。そんなユキに、かつて首都と地元とに離れていて、電話とメールでしか話ができなかった頃を思い出した。
トキに料理を習い始めたばかりで全然うまく作れなかった頃も、ユキは電話越しにいつも応援してくれた。少しずつうまくできるようになって、初めてシロの考えたレシピがトキに採用してもらえた時も自分のことのように喜んでくれた。料理人という仕事を、その誇りを、尊いことだと言ってくれて、その価値を認めてくれる。そんなユキがいたからこそ今のシロがある。
──無力でも何でも、それが俺のできることで、やるべきこと……だよね。
犯罪組織の動向だの密入国事情だのを探るのはシロの仕事じゃない。それはリーネア・レクタや軍部のひとの仕事。つまりはユキや、ユキと同じくらい優秀なひとたちの仕事だ。また、他ならぬユキがリーネア・レクタにいるのだから、もし何かあったとしても間違いなど起きようはずもない。
シロはユキを信じればいいだけだ。シロがすべきなのは、おいしい料理を心をこめて作ること。そう思うと、ふっと肩から力が抜けた。
「ねえ、今度の建国祭ではまた新しい料理作るの?」
「うん。普段と違う創作料理作ろうと思ってる。今レシピ考えてるんだけど、お祝いの気持ちをどう表そうか、ちょっと悩んでるんだよね……」
「そうだね……他国だと国旗の色の料理を作って祝賀を表するところもあるけど……。レース・プーブリカでそれをやるのは、ちょっと難しいか……」
「国旗の色ってないから、やろうとしたら各機関の旗色になっちゃうね。しかも軍部行政司法中央全部揃えたら、赤青緑黒だよ?」
「それだと、何をしたかったのか全くわからないか……。うーん、じゃあ紋章……」
「ニンジンで双頭の鷲を彫るとかそういうの?無理無理!」
「うーん……うーん……」
一緒に頭をひねってくれてから、困ったように笑うユキにシロもまた笑いかける。シロのやりたいこと、やるべきことを認めて支えてくれる。そんなユキの笑顔に改めて救われた気がした。
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下まで送ると言い張るユキを断って、一匹でユキの執務室を出る。来た時と同じ、専用通路のようなところを通って一階の玄関から出たシロは、ふいに視線を感じた。
「……?」
顔を巡らせた通りの先、昨日見たのと同じ金色がある。
「っ、ヒナ……!」
今朝店に来るはずだったライオンが、険しい顔をしてシロを見ていた。
「なんで今朝来なかったんだよ?待ってたのに」
走り寄り、今からでも来るか、と聞こうとしたシロはヒナを見上げて思わずその言葉を飲み込む。顰め面をした彼は、睨みつけるようにしてじっとシロを見ていて、その視線の強さに思わず怯んだ。
言葉もなく見つめ返したシロに、彼はしばらくしてからゆっくりと口を開いた。
「……あんた、何でこんなとこから出て来たんだ」
こんなとこ、と言ってリーネア・レクタ本部を顎でしゃくる。その仕草に不機嫌さを感じ取ったが、その理由がわからず、シロはただありのままを答えた。
「俺の番いが……ここに勤めてるから」
だから遊びに来た、それだけなのでそれ以上言いようもない。だがその答えにヒナは忌々しそうに舌打ちをした。
彼に漠然とした好感を抱いていたシロもさすがにその態度にはむっとする。
「何なんだよ」
何も悪いことをしていないのに舌打ちされる謂れはない。だがヒナは、そんなシロを嘲笑うように口の端を軽く上げた。
「あんた、自分の番いがどんな仕事してんのか、知ってんのか」
「……」
ユキが、どんな仕事をしているのか。リーネア・レクタの仕事をしている、ということではもちろんないだろう。具体的な業務の一つ一つまでシロは知らない。知るつもりもない。けれどそれが清濁を併せ飲むような仕事であることは理解している。ユキ自身も今さっき、綺麗な仕事ばかりではないと言ったところだ。だがそれが、ヒナに何の関係があるというのか。
じっと睨むシロに、ヒナはわずかに眉を下げる。無言で向かい合う二匹を避けるようにして人の波は割れ、また通り過ぎて行く。その中洲に取り残されたシロとヒナは、人々のもの問いたげな視線を受けながらもただじっとその場を動かずにいた。