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■ 愛してるって言って 6

 ユキのことを何も知らないはずのヒナに、ユキの仕事を馬鹿にするような発言をされた一昨日。それから2日経ってもシロはまだ内心ヒナに腹を立てていた。不愉快だった。ただ飯を食わせてやると言ったシロを偽善者と罵るならばまだわかる。だがユキのことを言われた、それが我慢ならない。
 しかしその一方で、少しは冷静になった頭で反芻してみればヒナは何もユキを貶めるような発言はしていない。リーネア・レクタの仕事について何か知っているらしいことをほのめかし、知らないシロを馬鹿にするような目で見たけれど、でもそれだけだ。
 シロの怒りはむしろ、ヒナがディーノに来なかったこと、心配させられたこと、にも関わらず番いであるシロ以上にユキのことを知っているような口ぶりをされたことなどに対する、八つ当たり──非常に自己中心的な思いによるものだったのではないか。そう考え始めると今度は忸怩たる思いが胸を占める。
 そんな矢先、広場で待つシロの目にヒナの姿が飛び込んで来て。シロは思わず声をかけていた。

「ヒナ……!」

 だがその言葉に振り向いたのは、ライオンよりもその隣にいた黒い男。肩ぐらいまであるざんばらの黒い髪に赤黒い瞳。黒服に身を包んだ彼の色味はクロと近いものがあるのに、硬派な印象を受けるクロとは違い、その男は見るものに陰鬱な印象を与えた。
 黒牛。獣人には珍しい、その獣種のせいもあるだろう。だが、凝り固まって乾き始めた血のような褐色の瞳に見つめられた瞬間、シロの背筋をぞくりと寒気が走る。不快感と嫌悪。滅多に抱かない感情に襲われて、シロはその場に立ち尽くした。

「へぇ……随分と綺麗な白猫だな」

 品定めをするように上から下までシロのことを舐めるように見つめ、それから男はヒナに醜悪な笑みを見せる。

「お前にしては、いいのを見つけたじゃないか」

 その発言にヒナは顔を歪め、何事か否定らしき言葉をぼそぼそと口ごもる。その詳細はシロの耳には届かなかったが、ヒナの焦りとも不安ともつかぬ表情から、何かとても悪い──もしかしたら最悪のタイミングで声をかけたらしいことだけは理解できた。
 じり、と思わず一歩後ずさったシロをちらりと横目で見た黒牛は喉奥で笑い、大きく一歩を詰める。さらに後退しようとしたシロの背が壁にぶつかるのを愉しそうな目で見て、ニヤリと嫌な笑みを浮かべた。

「探す手間が省けたな。あんたならきっと高く売れる」

 “売れる” ──人身売買を示唆するその言葉にシロが眉をひそめた瞬間、ヒナが慌てたように声を上げた。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ……!こいつはただの白猫で、何の役にもたたねえよ!高くなんか売れねぇって!!」

 必死に言いかけるヒナの訴えを、だが黒衣の男は一蹴する。

「いいんだよ、どうせ猫なんざ何の役にも立たないのはわかってるんだ。あっちの方で使えそうならそれでいい」

「で、でもそれならもっと他にも」

「他を探してる暇なんかないだろうが。早くしないと奴らが嗅ぎつけてくる。そうしたらお前、……わかってるんだろうな」

「わかってる、わかってるけど」

 二匹のやり取りに、段々とシロの中で不安よりも大きな不快感が溜まっていく。二匹の事情はさっぱりわからない。けれどヒナはどうやら黒牛に逆らえない立場であるらしい、そのことがいい事のように全然、全く思えない。

 ──こんな奴とは関わらない方がいいのに。

 シロの野生の本能が、この男は危険だと言っている。関わるなとうるさいくらいに警告を発する。睨みつけるシロの視線に気づいた男は少し目を細めて、それから皮肉げな笑みをその口元に浮かべた。

「ああ、その目だ。そのむかつく目。その目をするのは、世界広しといえどレース・プーブリカ国民だけだ……その生意気な目が絶望に打ちひしがれて、泣くのを見たいって御仁がたくさんいらっしゃるんだよ」

 爛々と輝く赤黒い目がシロの姿を捉える。伸ばされた手がシロの顎をつかみ、顔を上げさせる。その強さにシロは顔をしかめた。それを見て男は、実に嬉しそうに笑った。
 視界の端でヒナが顔を歪めている。苦しそうにも見えるその顔に、シロはもう一度男を見上げて睨みつける。シロの視線と男の目線が重なり、男がシロの腕を引こうとしたその時、男の背後から響いた低い声がその場を貫いた。

「──その手を離せ」

 ゆっくりと振り向く男の視線の先、凍るほど冷たい目をしたユキがじっとこちらを睨んでいた。
 先ほどまで余裕綽々だった黒牛が、その殺気にこくりと喉を嚥下する。ユキは、間近にいるヒナには一瞥すら与えず、すたすたとその横を通り抜けてシロの目の前まで来る。そして一瞬身構えた黒牛の腕を何の躊躇いもなく掴んだ。
 掴み上げられた途端に男の腕が赤黒く変色を始め、傍目にもユキが全く手加減していないのがわかる。小さく息を吐きながらシロから手を離した男を、それでもユキは射殺すような目で見た。

「このひとは、お前のような奴が触れていいひとじゃない」

 ユキの圧倒的な存在感と殺意に、それを向けられていないシロでさえ身体が竦む。だが当の本人は氷のように冷え切ったユキの瞳を見て、ああ、とわざとらしいまでに平穏を装った声を漏らした。

「あなたか──ユキヒロ・シオンというのは」

 その言葉にユキの眉がピクリと動く。じっと睨むユキを黒牛は額に汗をかきながらも目元を緩めて眺め、それから口を開いた。

「リーネア・レクタの統括官。レース・プーブリカの頭脳」

 歌うような声に、ユキはただその目を細める。陽光を受けてぎらりと煌くその瞳は肉食獣の証そのもの。だが草食動物皆が震え上がるその目を向けられても、黒牛は平然とユキの瞳を見返した。

「さすが場馴れていらっしゃる。そのお綺麗な顔の裏で、どのようなことをして来られたのか。よくよく存じ上げてますよ」

 くくく、と喉奥で笑うその言葉に、男を掴むユキの手にさらに力が入り、ぎりっと嫌な音がする。

「黙れ。……牛が飼い犬の真似事か?」

 低い声がユキの喉から響く。それに男は一瞬目を見開いたが、すぐに目を細めてなおも言葉を重ねた。

「ああ、もう私の正体も見破っておいでですか。さすがは世界屈指の頭脳と讃えられるだけのことはある。……ですが飼い犬の真似事は、あなたも同じでしょうに」

「……っ、黙れ」

 グキ、と骨の折れる音がして男の右手首が不自然な方向へと曲がる。息を飲んだシロとは対照的に、折られた男は声を上げて笑った。

「私があなたの大事な大事な白猫に触れる資格がないと言うなら、それはあなただって同じじゃありませんか。──そうでしょう? “裏の仕事を引き受ける”、穢れた者同士だ」

「……黙れ!!」

 男の手首を離したユキの手が、すぐに男の首を掴んでそれを壁に叩きつける。そのまま絞め殺しそうなユキに、シロは大きく目を見開いた。

 ──どうしたの、ユキ

 シロはユキがどんな仕事をしているかを知らない。けれど、ユキがどんな仕事をしていたって嫌いになんかならないし、ユキは穢れてなんかいないのに。
 こんなやつの同類なんかじゃない。何を馬鹿なことを、と笑い飛ばせばいいだけなのにユキはそれをしない。苦しむような表情で男を睨みつけていて、そのことがシロにはつらかった。

 ──そんなの、関係ないのに

 ユキがどんな仕事をしていても関係ない。リーネア・レクタに遊びに行った時も、そう言いかけた。あの時は、まあいいやと思ってしまったけれど、それはユキはそんなことはとっくの昔にわかっていると思ったからだ。ユキにこんな顔をさせるくらいなら、あの時無理にでも伝えておけばよかった。

 ──言わなきゃ

 そう思うのに、シロの足が動かない。今にも黒牛の喉笛を食いちぎりそうなホワイトタイガーの殺気が恐ろしくて、猫の本能が震え上がってしまって、ユキのそばに近寄れない。それでも無理矢理に腕を伸ばそうとしたその時、黒牛の男は顔を上げてユキの背後にいるヒナを見た。

「……やれ」

 短い命令に、ユキがピクリと反応した。そのまま男から手を離し、近くにいたシロを懐深く引き寄せる。ユキに腕を引かれたシロの視界はぐるりと回転し、あっと思う間もなく抱き込まれた。
 ユキの肩越し、泣きそうな目でシロを見て、顔を歪めたヒナを見た。

 『ごめん』

 そう唇が声を出さずに動いたのを何故その一瞬で読めたのか。次の瞬間破裂音が轟き、ユキの身体がシロを地面の上に押し倒した。ユキの身体が覆い被さってきて、何が起きているのか全くわからない。ただユキの身体が熱くて、それが酷く恐ろしかった。

「ユキ、ユキ。ヒナが……」

 そう繰り返し呟いてみても、間断なく届く爆発音のためにその声は聞こえない。シロ自身の耳にさえ、届くことはなかった。

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