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■ 愛してるって言って 7

 シロと同じ料理人を目指そうかと思ったことが、実はユキには何度かある。
 首都と地元で離れて暮らしている間、シロから聞く、シロとトキの師弟関係が羨ましかったし、ユキもシロと同じ立場に立ち、同じ目線で物事を考えたかった。けれど何事もそつなくこなせるユキだったが、料理だけはどうにも苦手。何を作っても全くうまくいかなかったし、何より、トキと同じであっては彼を越えられないと思ったのが大きかった。
 シロと同じところにいたい。けれどシロと同じところで、シロが他のひとのものになるのを指をくわえて見ているのだけは嫌だ。
 ユキからシロを奪おうとする全てのものからシロを護り切れなければ、それは何の意味もない。だからユキはあえてシロと違う道を選んだ。自分の頭脳をリーネア・レクタに売り込んで、そこに活路を見出した。機関内での立場を築いて他のものを蹴落として、ありとあらゆる可能性を叩き潰して生きる。しかしそんな日々を1年、2年と送るうちに段々と心が死んでいくような気もしていた。
 誰かを陥れても、そしてそれがかつての同僚で仲間であっても全く心が痛まない。むしろ陥れられるような隙を作った相手を嘲る自分がいて、ならばいっそとより偽悪的に振る舞ううちにそれがどんどん身に馴染んでいく。周りもユキを“そういうひと”だと認識し始める中で、シロだけがそんなユキを真っ向から否定した。

 ──そんなのだめだ。

 シロはユキがどんなことをしているのか全く知らない。知らせてない。なのに笑いながらひとを陥れることとか、いとも簡単に嘘をつくこととか、そんなことだけはちゃんと知っていて、そんなやり方は間違っているとユキのことを怒る。
 ニセモノのユキを見破って、叱ってくれるのはシロだけで、そんなシロにユキは幾度となく救われた。だからシロにだけは本当の自分を見ていて欲しくて、ますます汚い自分を見せられなくなっていく。一番汚いのは他の誰より自分だと、ユキが一番よく知っていた。

 ──シロさん、ごめん。ごめんね……

 シロが大切に大切に育んでくれたトラ猫は、いつの間にか真っ黒な汚い猛獣へと変わってしまった。シロが綺麗だと言ってくれたこの瞳には、もう汚いものしか映らない。シロの側にいるためにとがんばってきたつもりだったけれど、果たして自分はシロの側にいる資格があるのかと自問すれば、その答えはいつも“否”だった。
 日々少しずつ蓄積していった欺瞞と疑惑と大いなる不安と焦燥。黒牛が突いたのはまさにそこで、数少ない弱点を暴かれたユキの頭からは一瞬、ライオンのことが抜けていた。
 黒牛の端的な言葉の後に聞こえた、カチリという硬い音。指揮官として作戦の最前線にも身を置いたことのある耳には、背後から聞こえたその音の意味が正しく伝わった。それは電子爆弾に信号を送る音。数秒を待たずしてその場が血の海になることを意味していた。

 ──シロさん

 視線を走らせた先に、ユキの手元を見つめて青い顔をしているシロがいる。この広場にいる何百という罪のないひとが犠牲になろうとも、シロだけは死なせるわけにはいかない。
 広場に轟音が轟くより速く、ユキはシロの身体を掻き抱く。続いて聞こえた耳鳴りがするほどの破裂音と、熱風。それを背後から感じ、ユキは懐深くシロを抱く腕に力を込める。腕の中でシロが何かを訴えている気がしたが、断続的に続いている破裂音のためにそれは全く聞こえなかった。

 ──ごめんシロさん。もうちょっとだけ我慢して。

 すぐに軍部が駆け付けてきて男は拘束されるはずだけれど、それが来るまではこの手を離せない。シロを万が一にも火薬にさらすわけにはいかない。強く強く、力を込める。
 破裂音がまだするのか、それとも止んだのか。ユキの耳は耳鳴りが酷く、周りの音が全く聞こえず、判断が付かない。ただ腕の中のシロが泣いていること、それだけは慣れ親しんだ気配でわかる。何度も抱き締めた細い身体。ずっと触れたくて恋い焦がれて、ようやく手に入れた愛しいひとが泣いている。

 ──ごめんね、シロさん。泣かないで。

 つらいのか。もしかしたら苦しいのかもしれないと思うけれど、今はまだ手を離すわけにはいかなかった。
 この事態を招いたのは自分の甘さだ。大切なものを奪われたくないのなら、一瞬たりとも気を抜くな。付け入る隙を作るな、先を読め。ずっとそうしてきたというのに、それに疑念を抱いた。
 愛したひとに嫌われるのが恐くて、愛するひとを護るという一番の目的を一瞬見失った。

 ──泣かないで、シロさん。泣かないで。

 心の中で語りかける。
 泣かせたくない。苦しませたくない。つらい思いなんかさせたくない。
 いつも笑っていて欲しい。あの明るい、お日さまみたいな笑顔で。

 ──きっともうすぐ終わるから。そうしたら、また笑って。

 笑って、できれば愛してると言って欲しい。
 その思いを最後に、ユキの意識は途切れた。

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