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■ 愛してるって言って 8

 その日はアオは、シロの昔の男だとかいう狼の尾行を特別に命じられていて、朝から狼の泊まった宿の前で狼が出てくるのを待っていた。

 ──完っ璧に、騙されたよなぁ……。

 ついボヤキが口をつく。
 シロの昔の男だという話だったから、シロとの逢引の現場だとか第三の女との痴話喧嘩だとか、またはシロをめぐるユキとの対立だとか、そういう類いのスキャンダラスな出来事が見られるかと思って野次馬根性で面倒事を引き受けたというのに。昨日一日見張っていた限りでは、狼に特に不審な動きはなく、痴情のもつれとは縁遠いように思われた。
 これでは、いつもの政治絡みの事件となんら変わりない。アオの性質を知り尽くしているのであろうユキに、いいようにこき使われたとしか思えなかった。

 ──しかも全っ然出てこねぇ……。こっちは朝から待ってんだから、さっさと出てきてシロさんとこでも行けよ!

 太陽も真上に上がり、ひとびとは活発に往来を闊歩しているというのに、狼が出てくる気配は全くない。スヤスヤと寝てるのかと考えれば考えるほどに、早朝から宿前で張っているアオの苛立ちは募る。いっそ部屋に突入して叩き起こしてやろうかと考えたところで、アオの端末が着信を告げた。

「ん?」

 見れば、アオが籍を置くリーネア・レクタの下請け会社の、熊の上司である。今日はユキ直々の命令で調査に関わることは報告してあったから、連絡など来るはずがないのだが。

「アオです。何かありました?」

 調査に関わることならばユキかリーネア・レクタから連絡が来るはずで、下請け会社の上司が連絡してくることに不審を抱きつつ問う。いつもひょうきんで愛嬌のある上司は、だが珍しく硬い声で告げた。

「緊急事態だ。お前、今どこにいる?」

「ユキさんに頼まれた、調査対象が泊まってる宿の玄関前っすけど」

 ちらり、とまたそちらを見遣るも、やはり狼が出てくる気配はない。

「……その調査は打ち切りだ。一旦戻って来い」

「え」

 つい先ほどまで、もう帰りたいと思ってはいたが、いざそう言われると戸惑いを隠せない。だって今はユキの命令で動いている。上司とはいえ指示系統の異なる命令に従えないのは、熊のおっさんだって重々承知のはずなのに。
 各機関の内部問題や国益関わる国際問題を取り扱うことの多いリーネア・レクタでは、調査中に他機関から横槍を入れられることも多い。しかしそれを無視する権限を公的に与えられている唯一の機関でもある。それだけ、扱う案件の重要度が高いということだ。だから下請け会社においても、指示系統の異なる命令は受け付けないよう徹底されていて、基本、ユキの指示で動いている間はユキ以外の指示で動くことはできない。それはたとえ、直属の上司の命令であっても、軍部幕僚長であっても、はたまた政府首相であっても同じことだ。
 熊のおっさんが連絡してきたのは、リーネア・レクタの上層部専用の秘匿回線。つまりリーネア・レクタ上層部が頭越しに指示をしてきた形になるわけで、他機関からの横槍の可能性は低い。だがリーネア・レクタ内部だって一枚板では決してなく、ユキを陥れようとしているものがないともいえない……。
 安易にハイハイと言って帰っていいのかと悩むアオに、熊の上司が低い声でもう一度告げた。

「緊急事態だ、戻って来い。……ユキさんからの指示は、今後出ない」

 その言葉に心臓が縮こまる。

「それ、どういう……」

 ひゅう、と喉が鳴り、妙に掠れた声が出る。だが端末の向こうの声は淡々と、事実だけを連ねて述べた。

「広場で大規模な爆発事件が発生した。死傷者は多数、その中にユキさんも含まれてる。無差別なのか、誰かを標的にしたものなのかはまだわからん」

 ごくり、と唾を飲む音が嫌に大きく聞こえる。何かを言おうと開いた口からは呼吸が漏れただけで、意味のある言葉は何一つ出なかった。

「ただ、ユキさんの状態はかなりまずい。もし助かったとしても、現場復帰の目処が立つのはだいぶ先になるはずだ。だから、あのひとが担当してた案件は全てリーネア・レクタ上層部が引き受ける。……その、上層部の命令だ。調査は中止、帰って来い」

「……わかり……ました」

 電話回線を切る手が震えていた。怖いのとも不安なのとも違う、妙に手に力が入らない。朝から見つめ続けた宿をもう一度見上げた。
 昨日一日張り込んだ成果を報告したユキは、その端正な顔の眉間にしわを寄せて何事かを考えていた。それはいつもの、世情を揺るがす大事件を扱う時のユキと同じ顔で、だからアオは、やっぱりこれは痴情のもつれなどではなさそうだと落胆したのだ。だがそれは恐らくユキの中での考えで、上層部は何も知らないはずだ。
 ユキは確固たる確証が得られるまでは動かない、典型的な慎重派だ。狼の調査にリーネア・レクタの部下を使わなかったのも、まだ確証が集まっていないから。集まり次第、リーネア・レクタを動かすつもりでアオに調べさせたに違いない。だから上層部はこの件に関して何も把握していないはず。何も知らないものの判断に従って、ここで調査を打ち切ってしまっていいのだろうか。
 だが、所詮アオは一介の調査員に過ぎない。何の権限もない身では仕方ないかと、しっぽを引きずってその場を後にしかけて、……ふと、足が止まった。

 ゆっくりと振り返ったそこに、宿はある。相変わらず狼が出てくる気配はない。陽はアオの頭上高く昇り、燦々と光が注がれている。昨日はここまで晴れてはいなかったけれど、それでも昼前に狼は軒を連ねる店々を訪ね歩いていた。用が済んだのか知らないが、のんびり過ごすにしても幾らなんでも動きがなさすぎではないか。
 じっと宿の入り口を見つめる。それから、フロントに向けて歩き出した。総支配人を呼び出し、リーネア・レクタの調査であることを告げて統括官としてユキヒロ・シオンの名を挙げる。蛇の道は何とやらで、その筋の人間の間では有名なユキの名に、総支配人は真っ青になった。狼の部屋を調べさせ、合鍵を持って来させる。開ける前に一度でいいからドアベルを鳴らさせて欲しいという総支配人の嘆願を拒絶し、奪い取った合鍵を持って彼が泊まる部屋へと階段を駆け上がった。
 五階の角部屋、512号室。カード認証の間も惜しく勢い込んで飛び込んだ部屋に、だが狼の姿はどこにも見当たらなかった。

「……畜生!」

 苛立ちまぎれに壁を蹴りつけても何も出てこない。いつ逃げられたのか……今朝か、それとも昨夜のうちか。何にせよ、あの狼は悠々とこの宿を後にしたに違いない。
 一度逃した獲物はそう簡単には取り戻せない。このレース・プーブリカ共和国内のどこへ行ったのか。アオには皆目見当もつかなかった。

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