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■ 記憶の窒息 4

 翌日からシロには、病院と家を行き来する日々が始まった。
 とはいえ、完全介護の行き届いた病院でシロにできることは何もない。けれど少しでも話をしようと決める。そのためにユキの部屋から持ち出した本や書類などを鞄に詰めて病室に持って行ったりもした。それらは記憶が戻らないユキにとっては己を知るための重要な資料。だからそれを届けるのだということを口実にして、シロは毎日ユキの病室を訪れた。
 病室の前でノックしてから返事を待ち、ドアを開ける。

 ──ああ、まただ……。

 しかしそのたび目に入る、ユキの冷え切った表情が、シロの胸の奥に重たい鉛のようなものを落とし込む。
 シロの姿を認めるといつも嬉しそうに、愛おしそうに目を細めてくれたユキがいない。そんな風に落胆する気持ちを無理に振り払って、シロはユキに笑みを向けた。

「具合はどう?」

 その問いかけにもユキはわずかに口角を上げただけだ。残念ながら、と言わず示すその態度に、シロの知るユキとの違いをどうしても読み取ってしまう。事故以前のユキはいつだってシロに対して言葉を惜しむということがなかった。

「今日は技術関係の本を持ってきたよ。あと、ユキの部屋にあった書類も持ってきたんだけど、これはもしかしたら少し古い資料かもしれない……」

 ガサガサとバッグの中を漁り、持ってきたものをサイドテーブルの上に広げる。そんなシロの行動を黙って見ていたユキがふいに口を開いた。

「マシロさん」

 呼ばれた名前に、無意識のうちにシロの耳がぺしょりと折れる。
 今のユキは決してシロを“シロさん”とは呼ぼうとしない。頑ななまでに本名の“マシロ”の名で呼び続ける。本当はシロにも“ユキ”と呼ばれたくないのかもしれなかったが、シロはシロで、ユキを“ユキヒロ”の名では呼びたくなかったから、二匹は呼び名という一点でさえもわかり合うことはできずにいた。

「……何?」

 何を言われるのかと身体をこわばらせたシロをユキはじっと見て、それから何かを言おうと口を開きかけた。しかし、ユキの唇から言葉がこぼれるよりも早く、コンコンと扉をノックする音が響く。ユキの病室はリーネア・レクタの用意した個室、他の部屋より広いそこに訪れるのはユキの客以外なかった。

「どうぞ」

 シロから視線を外し、入室を促したユキの声に応えて、病室のドアが勢いよく開く。

「やっほー!ユキ君、お見舞いに来たよー!」

 明るい声と共に入ってきた見知らぬアヒルにシロはびくりと身体を震わせる。奇抜なファッションに身を包んだ、けれど抜群のプロポーションを誇る彼女をユキは知っているらしく、うんざりとした顔を見せた。

「また君か……」

「今日はね、モスを連れてきたよー」

 そう言って彼女が脇に避けた間から、これまた大層美人な雉が顔を覗かせる。

「うわ、本当だ……毒気のないユキ君がいる……!」

 目を丸くしたモスと呼ばれた雉に、アヒルの彼女はにこにこと笑いかける。

「ね、一見の価値はあるでしょ?」

 ユキが不機嫌な顔を前しても全く頓着しない。そんな彼女に、ユキの方が溜息をついた。

「来る日も来る日も、物見遊山の観光客を連れてくるのはやめてくれないか」

 呆れたような声で告げるユキに、アヒルは軽く肩を竦める。

「いいじゃない。どうせ暇でしょ?」

 暇じゃない、と不満げに呟いたユキに取り合わず、彼女は連れてきた雉をユキの方に押しこくった。押されて前に出た雉は、ユキを興味深そうに眺めてからその顔に笑みを浮かべる。

「はじめまして、って言った方がいいのかしら。レーギアでユキ君と同期生でした。モスイーズ・ガヴラスです」

「モスはねー、今でも学術機関プラエスタトに残って研究職に就いてるの。だから卒業後も何度かユキ君とは会う機会があったんだよね?」

 三者三様に名乗りをした後で、アヒルが真っ先に口を開く。その言葉にユキは興味を惹かれたらしい。改めてモスの方を向き直り、シロにしたのと同じように丁寧に挨拶をしてからその専攻を尋ねた。

「基礎解析よ。初期値境界値混合問題を扱ってるわ」

 そう答えた彼女にさらにユキが2、3質問をし、専門的な議論へと話が進んで三者が談笑を始めるに至って、シロはどうにもならない居心地の悪さを感じた。
 すでにユキの病室を何度か訪れているらしいアヒルの彼女のことをシロは全く知らなかったし、ユキのレーギア時代の知り合いであるらしいモスという雉のことさえシロはこれまで話に聞いたことも会ったこともなかった。ユキはレーギアにいた頃も、そしてリーネア・レクタに所属してシロと一緒に住むようになってからも、シロに友達や知り合い、同僚などを紹介したことがなかったから。唯一、クロをウエイターとして雇ったことと、アオとランチに来たことがあること、その二回だけが例外だ。クロとアオの二匹以外、シロはユキの友達や知り合いを全く知らなかったし、また知る必要もなかった。
 だから今目の前で交わされている会話が高度に専門的すぎて、義務教育しか受けていないシロにはさっぱり理解できないことに加えて、ユキが“友人”と談笑する姿を初めて目にして酷く疎外感を感じる。だが実はこんな思いはこれが初めてではなくて、ユキが記憶を失ってからというもの、ユキを訪ねてくる客と鉢合わせすることが何度かあったが、その全員のことがシロにはわからなかった。

 ユキが記憶喪失であることは先方も承知しているから、自ら名を名乗り、ユキとの関係を説明してくれる。それを側で聞いてシロも初めて、そうなのかと知る。いかに自分がユキの一面しか知らなかったかがわかる。シロは所詮、記憶を失ったユキと同じ程度にしかユキのことを知らないのだと、思い知らされるのがたまらなくつらかった。
 俯くと、何かがこみ上げてきそうで恐い。けれど三匹を見つめていることもできなくて、シロは病室の床のタイルに目を凝らして、その一枚一枚を見つめた。白い石材で出来たタイルは照明の光を照り返してぬたぬたと光り、タイルとタイルと境目を曖昧にする。それを見落とさないように必死で目でなぞることで、明るいアヒルの笑い声も、雉の穏やかな落ち着いた声も、そしてユキの存外楽しげに響く声も、意識の中から排除しようと努め続けた。

「……ユキ君、こちらは?」

 病室の隅で佇むシロに気を遣ったのか、話が途切れたところでアヒルがそう言いながらシロの方を振り返る。恐る恐る顔を上げると、目が合った彼女ににこりと笑いかけられた。だが、しっぽは力なく垂れてわずかに震え、耳も伏せたままのシロには、彼女に笑い返すだけの力は残されていなかった。

「あぁ……」

 シロがいたこと自体忘れていたとでも言いたげに、ユキがぞんざいな相槌を打つ。それにまたピクリと反応してしまったしっぽを必死で押さえつけて、シロはようやく顔を上げた。
 優しそうに笑うアヒルと、不思議そうにシロを見つめる雉、そして面倒臭そうにシロを見るユキを順番に見て、また俯いてしまいそうになるのを必死で耐える。

「マシロ・アカシアさん。俺の幼馴染らしい」

 詳しくは知らない、と言外に匂わせたユキの言葉がまたもシロに突き刺さる。くたんと床に落ちたしっぽを再び持ち上げることはできなくて、シロは無言でぺこりと頭を下げた。

「マシロ、さん……?」

 何が気になるのかアヒルの彼女は、ユキの言葉に少し首をかしげたが、すぐに気を取り直してその美貌に笑みを浮かべる。

「はじめまして。ユキ君と、こちらのモスとはレーギアで同期だったの。アカッド・バルツァ。アカでいいわ」

 自らを画家だと称した彼女は、レーギア卒業後もかなり頻繁にユキとは会っており、同期生の中で一番ユキと親しかったのだと言った。
 レーギア時代の話をシロに話してくれるアカとモスの話に頷きながらも、言葉を差し挟む余地がないのが悔しくて、悲しくて、つらくて、苦しくてならない。ユキの一番近くにいるのは自分だと、シロはこれまで疑いもなく思っていた。けれど実際はどうだ、シロはユキのことを何にも知らない。シロが知っているのは9歳までのユキと、再会してからの3年間、それも家で過ごすプライベートの時間のユキの姿だけ。番いだというのに、それ以外は何にも知らない。
 それは、“10年間会ってなかった” “ただの幼馴染”だという、シロ自身の言と同じだ。それがどうしようもなく惨めだった。

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