■ 記憶の窒息 5
ユキの記憶が少しでも戻るように、何かしたい。もしも記憶が戻らないのならば、少しでも前のように、ユキの気持ちがわかるようになりたい。そう思ってユキの病室に通っているはずなのに、通えば通うほど笑顔がぎこちなくなってくる自分がいた。そんな自分がシロは嫌で嫌で仕方がない。けれど、笑おう、笑おうとするたびにユキの一挙手一投足が気になって、以前とは違うその態度に不安を覚えて笑えなかった。
そんなシロを尻目に、次々とユキの元を訪れるひとびとは皆、ユキを見て“記憶がないとは思えない” “何も変わらない”と言う。皆、実に楽しそうに愉快そうに会話を交わして笑う。それに応えるユキも楽しそうにしていることが多く、シロの知らない“ユキ”はこうだったのだろうかと思わされた。
皆の知っている“ユキヒロ・シオン”という男と、シロの知っている“ユキ”。それは同一人物であるはずなのに、あまりに大きく隔たっているように感じられた。そしてその違和は、今のユキとの違いにも直結する。
──違う、ユキならそんなことしない
──ユキならそんなこと言わない
そう思うと途端に顔がこわばり、口元が引き攣る。鏡を見ずともわかるそのことに、記憶を無くしても変わらず聡いユキが気づかぬはずはなく、必死で笑うシロにユキが不快感を示すことが多くなった。
ユキのそばに付き添いたいからとディーノを臨時休業にしたシロに文句一つ言わないでいてくれたクロとは、今でもたまに病室で会う。バイトという形で前職に復帰した彼は、まめに、とは言えないもののそれでもたまにユキとシロの様子を見に顔を出してくれる。その彼にも言われた。シロさん大丈夫ですか、と。
大丈夫なはずは無論なく、少しずつ少しずつシロとユキの間に亀裂が入り、それが大きな決裂へと繋がっていく。その前兆は、かなり前から現れていた。
その日、ユキの病室にはリーネア・レクタでの部下という青年が訪ねてきていた。上層部の決定を報告し、他にもあれこれと仕事の進捗を伝える。それが終わり、ほっと息をついた彼は、ユキを見て少し眉を下げて情けない顔を作った。
「ユキさんがいないとみんな手を抜いて、書類も雑になるし報告漏れもあるし、手間がかかって仕方ない。早く復帰してください」
顔をくしゃりと歪めて笑った彼に、ユキもまた苦笑じみた笑みを漏らした。
「退院許可待ちなんだ。俺も早くここを出たいよ。仕事も気になるし、……何より食事がまずい」
あからさまに顔を顰めたユキに、青年はカラカラと笑う。
「ユキさんは食うものにうるさかったですからねえ」
「君も食べてみる?きっと耐えられないから」
そんなやり取りを病室の隅で聞いていたシロは、「まずい」の一言にはっとした。あの事件があってからずっとディーノを閉めていて、自身もあまりちゃんとした食事を摂っていなかったから完全に失念していた。
食べるものにうるさいユキに食事を作ってあげるのはシロの役目で、ユキはいつだってシロの料理ならば文句も言わずに食べてくれた。完成された料理だけでなく、試作品だっていつもペロリと平らげてくれる。おいしいと言って笑ってくれて、そんなユキを見るのがシロは好きだった。
それに、記憶というのは何も視覚情報だけに拠るものじゃない。聴覚や嗅覚だって記憶に繋がる重要な情報で、昔聴いた音楽や嗅いだ香りに五感が刺激されて記憶が蘇るなんてざらにある話だ。シロの料理を喜んでいつも食べてくれていたユキは、シロの料理を食べれば蘇る記憶もあるかもしれない。
「なら明日、俺お弁当作ってくるよ……!」
椅子を蹴って立ち上がり、急に大声を出したシロに二匹は目を見張り、……それから複雑な顔をした。
──え……?
その反応の理由がわからなくてシロはたじろぐ。気まずそうな顔をする部下の青年の隣で、ユキは眉をひそめたまま口を開いた。
「申し訳ないけれど、俺は他人の作ったものは食べたくない」
予想外の言葉に目を見開く。そんなシロに青年がそっと補足をした。
「ユキさんは、記憶を失くされる前から召し上がるものにはこだわりがあって……。市販のものでも、生産者のはっきりわかる、そしてきちんとした管理のなされたところのものしか口にされなかったんですよ」
だから気にしないでください、という意味で青年は言ったのだろうが、ユキがかつて気にしていたことの意味はシロの方がよくわかっていた。
ユキは潔癖性だ。しかしそれ以上に、“きちんとした”というユキの言葉の背景には、クオリティ・コントロールという考え方がある。
料理人は食材を加工・調理して提供する。それが仕事だが、だからと言ってその食材一つ一つ、またその食材を作っている生産者一人一人に対して何の責任もないというわけではない。レース・プーブリカ共和国ではあまりないが、他国の食材の場合は往々にしてその生産現場では弱いものが酷使され虐げられている。そのような生産者のものを買うということは、過酷労働・奴隷化の手助けをしているのと同じだというのがユキの考え方だった。
──そんなもの食べさせられるなんて、胸糞悪いでしょ?
そう言ってユキは笑った。受注販売元は、その生産過程全ての責任を負うという考え。だからリストランテ・ディーノではオーナーであるユキが、扱う食材全ての生産現場を管理・監督しているし、責任を負っている。生産者にも会いに行き頻繁に話し合い、新たな生産物の開発に費用が要るとなればディーノで出すこともある。そのような関係であるから生産者たちとは良好な関係が築けていて、彼らが首都に来た時にはそれがプライベートな旅行であってもディーノに寄ってくれることも多かった。
シロ自身は生産者と直接会ったことはあまりないから、奴隷商人が生産者のふりをして訪ねてきた時に騙されてユキに怒られたこともあった。だが、そんなユキの考えは他の誰より理解しているつもりだ。
うちの──ディーノの食材に問題はない。それには絶対の自信があった。
「……うちのは、大丈夫だよ」
ユキの部屋にある、膨大な量の資料を思い出す。生産現場の雇用者一人一人の生活に至るまで詳細に調査をした資料。それを思い浮かべながら、シロはポツリポツリと言葉を漏らした。
「俺が料理人をしてる店の食材は、全部“きちんとした”ところで作られたものばかりだよ。ちゃんと店で出してる料理を持ってくるから。だから……、だから食べてみて欲しいんだ」
ディーノで提供する料理はシロが作っているけれど、決してシロ“だけ”が作っているわけではない。ユキのこだわりも詰まったそれは、ユキの記憶を揺さぶる大きな一手になるに違いなかった。
だが、シロを見返すユキの空色の瞳は冷たく凍っていて感情一つ見えない。ぞくり、と背筋が凍るような気分をシロは味わう。そんなシロを見ながら、ユキはゆっくりと口を開いた。
「マシロさん」
冷静な、聞き様によっては冷たくさえあるユキの声。空色の瞳は凪いだままで変化の兆しさえ読み取らせなかった。
「食材に問題がなかったとしても。他ならぬマシロさんが、今の俺にとっては“他人”なんですよ。……昔はどうだったか、知りませんが」
他人、という一言に唇が震えた。
ユキは見知らぬ他人の作ったものを──信頼できない人間の手で作られたものを信用しない。だから食材は全てユキが信頼できる生産者がつくったもの。だがまさか調理をするシロ自身が、“信頼できない人間”の中に入れられる日が来ようとは。
胸が痛い。苦しくて仕方が無い。
料理を作るということを、料理人という仕事を、ユキはいつも応援してくれた。認めてくれた。店を出せるよう協力してくれて、共同経営者として手伝ってくれた。ずっと一緒にやってきた。その全てを否定された気がした。
ユキはいつも、どんなものでも、シロが作ったものなら何だっておいしそうに食べてくれた。たとえちょっと手抜きをしてもユキは何も言わない。けれど気づいていないわけではなく、疲れていて手間をかける気になれないというシロの状況まで理解して何も言わないだけなのを知っていた。だからシロは、ディーノで出す料理には一切の妥協をしない。いつ突然ユキが来ても問題ないように。ユキが100%の満足を味わえる店にしようと決めたから。それが首都に来てからの、料理人としてのシロの誇りだった。
視線を足元に落とすことで耐える。けれど今にも涙が出そうだった。料理さえ食べたくないと言われたらシロにはもう何もできない。シロをこれまで支えてきたもの、尊厳や誇り、存在意義といった根幹に関わるもの全てを否定された気分だった。
そんなシロをユキはじっと見て、それからとうとう堪え兼ねた、といった様子でため息をつく。
「もう、諦めませんか」
落ち着きを払った、穏やかそのもののユキの声。だがそれが、シロに優しい言葉を紡いだことはない。生きててくれて嬉しかった。目を覚ましてくれて嬉しかった。けれど目が覚めてからのユキは、いつもつらい現実をシロに突きつける。
「俺の記憶は失われた。沈んだんじゃなく、失われたんだと思います。だって目覚めてから一度も以前の記憶が蘇ったことはありませんから。……だから、あなたの望む記憶が戻ることはないし、あなたの“ユキ”が帰ってくることもない」
そっと目線を上げたシロは、ユキの空色の瞳とぶつかった。シロの身体が震える。けれどそれでも、ユキの瞳がシロに何かを伝えてくることはなかった。
「俺は、あなたの“ユキ”じゃない」
じっと見つめてくる氷の空に、震える唇を必死で動かす。
「迷惑、だった……?」
シロの存在そのものが。
「ええ」
わずかな躊躇もなくきっぱりと告げる。その言葉に、シロの鼻の奥がツンと痛くなる。俯いて目を見開くシロの視界で、ぱたり、ぱたりと涙がこぼれた。