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■ 凍えるように小さな声で 4

 動物の生存本能を根幹とした競争原理の強いこの世界において、レース・プーブリカ共和国は初の共和制成功例として知られる。身分差を排し、獣種差別を完全撤廃した唯一の国。平和国家を標榜する大国であり、その存在は多くのものにとっての夢の実現であり理想の体現であるとされる。しかしその内情はというと、他に類を見ないほどの内憂外患を抱えているのもまた事実なのだ。
 外患という点では、平等というレース・プーブリカの国家理念に意義を唱える他国からの干渉問題が常に存在していることが挙げられる。しかしそれは、世界最強を誇るレース・プーブリカ共和国軍の力と、また科学技術の軍事転用によって今のところ押し留め得ている。問題は内憂の方だ。全獣種の理想郷とされるレース・プーブリカには、多くの移民や難民が殺到する。だがその全てを受け容れることは当然できない。それでも何とか、生国を脱け出してレース・プーブリカに渡りたいと願うものは後を絶たず、結果として多くの密航者をその内深くに抱えて続けている。受け容れられないのに押し寄せるひとびとをどうすればよいのか。密航防止策の模索と同時に、すでに国内に渡り不法滞在している密航者たちをどう処理すべきか。それがレース・プーブリカ共和国が抱えている最大の問題である。
 レース・プーブリカ国内での犯罪率は建国以来右肩上がり。その大半が不法滞在者によって引き起こされたものだ。食うに困って犯罪に手を染めたもの、また彼らを犯罪へといざなうシンジケートの存在も複数確認されている。だがそれも本体がレース・プーブリカ共和国外にあるとなれば内政不干渉主義を貫くレース・プーブリカの手には負えない。そうしている間に問題はどんどんと肥大化する。

「その打開策が、闇ブローカーという訳だ」

「そんな馬鹿な!」

 思わず叫んだクロにユキは苦笑する。それは駄々をこねる子どもを見るような表情でもあった。

「馬鹿なと言われても、これが現実なんだから仕方ない」

 密航してでもレース・プーブリカに来たいというものは後を絶たないが、世の中そんなに人材が潤っている国ばかりではない。人手不足に悩む国に、レース・プーブリカが持て余している密入国者・不法滞在者を斡旋する。……場合によっては、人身売買紛いのことをしてまで。

「食うに困った不法滞在者たちは、いつだって藁にもすがる思いでいる。それを利用して彼らをズローに、引いては他国に売り渡すというのが我がレース・プーブリカ共和国が持ち得る唯一の不法滞在者対策だ。実際に行っているのは行政の人間だが、リーネア・レクタ上層部もそれを黙認している」

 世界が誇る平和国家がその裏で人身売買を行っていたなど、許されることではない。だがそれが本当なら、リーネア・レクタ上層部に駆け込んだところで、この件は握り潰されるだけだというのも自明の理。どこへこの報告書を持ち込むべきか、どうやって捜査の正当性を訴えるべきか、握り潰されないようにするにはどうすれば。確かに、それが問題だった。
 眉間にしわを寄せて見上げたクロを、だがユキはケロリとした顔で見返す。

「“マシロ・アカシア”がズローにいるというのなら話は簡単だ。俺の番いを探すという私的理由で組織に立ち入り、そこで決定的な証拠を見つけてしまったという形を取ればいい」

 そして、見つけてしまった以上は黙っていられぬと公表した、ということにする。
 だが、そう言う傍らでユキの視線は床に投げ出されたまま。段取りを決める段階に入っている、計画を立てて実行すればいいだけ、というところまで調査は詰められている。なのにユキは、そんな話をしながらもまるでその気がなさそうに見えた。

「……やらないんですか」

 捜査上の障害も取り除き、シロを探し出すこともできるという、願ってもない状況なのに。

「……」

 この期に及んで何を悩むのか。そう思いながら見つめるクロに、ユキは眉を寄せて困ったような表情を作った。

「ユキさん」

 いつもならそこで止めて、余計なことを言わない選択をするところ。だが今ユキを動かせなくて、シロにもしものことがあったらと思うと恐ろしかった。闇ブローカーがシロを手に入れて、そのまま手をこまねいているはずもない。
 どこかに売り渡されてしまったら──海を越えてしまったら、もう会えない。それが何より恐ろしい。

「ユキさんは、シロさんに聞いてみたくはないんですか」

 何故いなくなったのか。どうしようとしていたのか。ユキのことをどう思っているのか、どうするつもりだったのか。
 その全てはシロしか知るひとがなくて、シロが失われてしまったらもう二度と知ることの出来ないこと。シロを手放すなら──解放すべきだと、シロがいなくなったあの日に言っていたように今も思っているのなら、再会して、無事を確認してからもう一度、今度こそさよならを言って解放すべきではないのか。
 そう言い募るクロの背後で、部屋の窓が揺らされて小さな音を立てる。吹き付ける風にかたかたと鳴る窓を、ユキはただじっと見ていた。

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