■ 凍えるように小さな声で 5
まだ雪は積もっていないにも関わらず、冬の到来したレース・プーブリカ共和国の首都は寒い。部屋の中でも、セントラルヒーティングを稼動させなければコートを脱げないほど。ユキとクロの二匹分の体温と呼吸だけで薄く曇る窓を、ユキはぼんやりと見つめた。
ユキの頭の中、遠く、形もつかめないほどに遠いどこかに、これと同じように白く曇っていた窓が残っている。いや、決してそれは同じではない。ふわふわと立ち上っていた湯気。ほんのりとあたたかだった部屋。真白くしあわせそうに曇っていた窓の外には、まだ落ち葉が舞っていた。今よりも数ヶ月前の、……もしかしたら数年前の残像。あたたかくておいしかった食事と、やわらかな空気。食べ終える頃には窓はぐしょぐしょに濡れていた。それを見てあのひとは、雨が降ったみたいだね、と言って笑ったのだ。
──名前は、マシロ・アカシア。雑種の白猫。ルースの町の出身。料理人。
記憶したことは、はっきりと明瞭な形を伴ってユキの意識の中に残る。しかしユキの心を占めるのは、決して揺らがないそれらではなく、イメージの残骸。記憶とは言えないほどに断片化されたそれがこの二ヶ月、ユキに息をつく暇を与えなかった。
毎朝目を覚ますと、ユキはいつも寝台の上にゆっくりと身を起こす。ベッドを揺らさぬように、慎重に。隣で熟睡する誰かを起こさないようにする配慮は、その相手を忘れてしまった身にも今なお癖として染み付いていた。落ちてくる前髪をかき上げながら横を見ても、広いベッドの上には無論誰もいない。敷布の上に温もりの痕跡はなく、初めからないはずのそれに胸が勝手にツキンと痛む。そこにユキは、丸くなって眠る白猫の姿を見る。二ヶ月以上前の記憶はユキにはなく、そんな白猫の姿を見たこともないというのに、ユキの中には記憶の断片、そして存在の痕跡があった。
ユキの中のあちらこちらに散らばっているそれらは、皆、やさしくてあたたかい。泣きたいくらいに幸せだったような気がする。大切なそれをぎゅっと抱き締めるような気持ちで日々を過ごしていたような気がする。なのにその印象だけが鮮明で、輪郭はぼやけておおよその形すらつかめない。
それはまるで、窓を曇らせていた白い靄が透明な水滴に変わるように。しあわせの欠片は細切れになってユキの中に落ちてきて、ユキを苦しめるだけだった。
「あのひとは、」
言いかけて、すぐにユキは口を噤む。しばらくそのままでいて、少し経ってからようやく再び口を開いた。
「マシロさんは、俺に探されたくはないんじゃないかな」
胸にぽっかり穴が開いたようでつらい。ずうんと何か背にのしかかっているみたいで、目を動かすこともできない。息が苦しくなるような、喪失感。だがユキは何を失くしたかさえ知らない。
「シロさんは、そんなこと思いませんよ」
マシロをよく知る黒犬は、そんなユキの懸念を一蹴した。
「あのひとは基本的に単純だから、助けて貰ったらありがとうとしか思いません。家出しようとしたのは事実だろうから、むしろシロさんの方が気まずいんじゃないですかね」
そう一気に言ってから、おもむろに口をつぐむ。そして少し経ってから、またクロはその口を開いた。
「ユキさんが気にしてるのは、」
そこでまた言葉を切る。だがクロは再び口を開いて言葉を紡いだ。
「ユキさんが気にしてるのは、シロさんに『探されたくなかった』って言われること、なんじゃないですか?」
躊躇いがちの、それでいて窺うように告げられた言葉は、ユキの中の不安を言い当てているように思われた。
あたたかく、幸せな記憶に手が届かないことはつらい。けれどそれ以上に、それは“ユキ”に与えられたものであって自分には与えられないのだと知るのがこわい。自分の中に残る欠片があたたかければあたたかいほど、幸せであれば幸せであるほど、それが手に入らないと知ることがこわい。それが、マシロのことを積極的に心配できない、考えられない、向き合えないユキの本音である。そう言われれば、そうであるような気もした。
「でももしも、そうこうしてるうちにシロさんに何かあったら、後悔どころの話じゃなくなりますよ」
そして、正当にして実に真っ当な意見をクロが述べる。もしも、マシロに何かあったら。その懸念は十分に理解できるけれど。
「……この件は、お前に任せる」
「ユキさん!」
「資材も用意する。万が一に備えて、アオも連れてけ」
「ユキさんは、行かないんですか!?」
怒鳴るようなクロの声に、ユキはそっと目を伏せる。思えばこの部下とはずっとこの調子だ。責められ、それを苦痛に思いながらもその怒りが正当であることがわかっているから、その目を直視できない。
ユキが先頭に立たなければ、番いを捜すという口実の威力も半減する。クロやアオがいくら動いても、最終的にユキが表だって立つことになる以上、ユキが動かなければならないのは道理だった。だが。
凝った露を集めても、元の真っ白なしあわせの形は戻らない。ただそれが、とてつもなくしあわせだったことだけは“憶えて”いる。いっそ憶えていなければよかったのにと思ってしまう自分自身、それがユキの気持ちを沈ませていた。