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■ 凍えるように小さな声で 6

 シロさんじゃなきゃ嫌だ、と言った幼い声を覚えている。
 嗚咽をこらえてひくひくと喉を震わせて、この世に生を受けてまだたったの4年しか経っていない彼は、それでもしっかりとシロを見上げて涙に濡れた声で言った。
 可愛かった。愛おしかった。大切だった。たかが幼稚園の親子遠足に、忙しい父の代わりにシロの母が行くことになったからといって、そんな風に泣き出す子が他にどれだけいるだろう。お父さんじゃなきゃ嫌だ、ならまだわかる。けれど俎上にすら上げて貰えなかった彼の実父はシロの隣で苦笑混じりに笑っていて、いつもは聞き分けがいいんだけどと少し申し訳なさそうに言った。

 生まれた時にすでに母は亡く、ずっと父と二匹で暮らしていたユキは元来の聡明さに加えて、子どもらしからぬ程に物分りがよかった。父が忙しいのは百も承知。希望なんて述べたところで父を困らせるだけなのはわかっているから、わがままなんて言わないし文句も言わない。そんな子どもだったのに、「今度の遠足は、お隣のアカシアさんが一緒に行ってくれるって」と言われていた、その同行者がシロの母だと知った途端にわんわんと声をあげて泣いたのだ。シロだと思ったのに、と。

 それが一番最初だったと思う。以来、ユキは事あるごとにシロでなければ嫌だと訴え続けた。お風呂に一緒に入るのも、お昼寝で隣に寝るのも、遊ぶのも、勉強するのも、おやつを食べるのも。病院の予防注射も歯医者の定期検診も、シロが手を握っていなければ絶対に行こうとしなかった。いつ、いかなる時もユキが望むのはシロで、それはずっと変わることがなかった。
 そう、三年前の再会時まで長らく受け入れられずにいた、“番い”ということに関しても。彼はずっとシロがいいと言っていたのだ。

 ──シロさん、俺と一緒になって

 シロでなければ嫌だと彼は言った。それを飽きることなく何度も何度も口にした。
 この世でただひとり、シロだけを望む言葉を。

「う、……」

 けれどユキが首都に行く前は、それを受け入れることができなかった。ユキは一度こうと思い込んだら絶対に枉げない頑固なところがあったから、番いはシロだと思い込んでしまったが最後、他の全ての可能性を排除してしまいそうでこわかった。シロと生きていくことを早々と決めてしまったら、ユキは外の世界へ目を向けなくなる。ユキの他の可能性をシロが潰してしまうのではないかと、それが何より恐ろしかった。
 嫌がるユキに、無理に外に目を向けさせた。だから、もしもユキが首都で事故に遭ったり、つらいことがあって心を傷つけてしまったりしたらどうしようかと、ずっとずっと不安だった。もしも何かあったらすぐに飛んでいけるように。もしもユキが帰ってきたらすぐに迎えられるように。そう思いながらユキのいない日々を過ごしていた。

「……っ、……」

 あの時、ユキに外を見ろと言ったのは自分、シロしか見ないユキを否定したのも自分。
 だから今、シロの存在が否定されて、ユキがシロのいない世界を見ているのも全て自分が招いた結果。
 自業自得だと、思った。……



 痛みと寒さ、そして漂う饐えた臭いに耐えかねてシロはゆっくりゆっくりと目を開く。暗闇に光る猫の目にまず最初に映ったのはゴツゴツとした壁面。ざらついた岩盤が剥き出しの、洞窟のようなところにシロは倒れていた。

「……っ、………ごほっ」

 声を出そうとした途端に咳き込む。ひゅうひゅうと空気が抜けるような音が喉からして、血の味が舌に残る。身体が重く苦しい。起き上がろうと四肢に力を入れるが、震える手足は思うようには動かなかった。
 まずいな、とぼんやりした頭で考える。こうなった原因に思いを巡らす。ユキとヒナに、と花束を手向けに行った広場で、事件の時にヒナと共にいた黒牛を見かけ、思わずその後を追ったのは覚えている。表からは中が全く覗けない怪しげな店に入っていくのを見て、一瞬躊躇をしたけれど、後を追うことを選んだ。

 ──えっと、それから……?

 追い掛けて、店の中に入ったのだったか、入らなかったのだったか。そのどちらでもない気もする。

 ──うー……ん……?

 その後の記憶はない。ものの見事に、すぽんと抜け落ちていた。
 強盗にでも襲われたのだろうか。だがそれなら身ぐるみ剥がされて、そこらに置き去りにされそうなものだ。しかしここには見える限りにはひとの気配はないし、点在して見えるのは腐敗臭を撒き散らしている生ゴミと思しきものとか、中の綿が出てしまっているマットレスとか、赤茶色の錆がびっしりとその表面を覆い尽くしている鍋だとか、変な方向に曲がったままの自転車などで。

 ──ゴミ捨て場……?

 腐るものも腐らないものも全てがごっちゃに放り投げられているそこは、明らかに不要物の廃棄場。小山になっているゴミに紛れるようにして、シロは打ち捨てられていた。

 ──とりあえず、助かった……と思って、いいのかな……?

 ぐったりと倒れ込んだままシロは考える。だが、のんびりとしか回転しない頭の中に相反して、身体は小刻みにカタカタとずっと震えていた。
 シロには震えている意識すらない。ただひたすらに寒く、そして末端が痛い。手足の神経が寒さを痛覚として訴えているのだということは、考えなくてもわかった。
 視界の端に映る、黄茶色に変色したようなマットレス。あんなものでも、はみ出している綿を引っ張り出してそれにくるまれば、多少は身体も少しは温まるだろうか。そう思うのに、シロの身体はその意志に反してピクリとも動かなかった。全身が鉛のように重く、動かない。寒くて痛くて苦しいのに、眼球は熱を持ったように熱く、目を見開いていることさえつらかった。
 瞳を閉じれば自分の荒い息だけが聞こえる。はあはあというよりはぜえぜえというような、喉に引っ掛かる呼吸音。それに混じって、ばくばくと異様なほど大きな音で心臓が脈打つのが聞こえた。

 ──つらい

 こんなにつらいのはいつぶりだろう。もしかしたら生まれてこの方、初めてかもしれない。

「……っく、……」

 それでもなんとか床を這おうと指先に力を込める。ほんの少し、本当にごくごく僅かにだが指先が動き、やがてゆっくり、ゆっくりとマットレスに向かって伸ばされた。それを見つめる視界が潤み、勝手に霞もうとする。一回まばたきをして視界の明度を保つ、それだけのことにさえ精神力が必要で疲れ果てる。このまま目を瞑り、全てを諦めてしまいたい。そんな思いを圧し殺して、シロはさらに先へと指を伸ばした。
 ユキの病室に通う日々の中で切り忘れ、白く不健康に伸びてしまった爪先が、泥で黒く染まっている。震えるそれが地をかき、汚泥の底の岩盤を抉ってガリ、と嫌な音を立てた。けれどその感覚は指の神経に、すぐには伝わらない。数秒遅れて、岩盤の硬い感触が爪先に伝わった。

「う、………」

 爪先が熱を帯びるほどに力を込めてようやく、ズル、とシロの身体が僅かに動く。
 たった数センチ、普段ならば動いたと意識もしないほどに僅かな距離を動いただけで、はあはあと荒い息が肺から漏れた。ぐわんぐわんと激しく叩き鳴らす鐘のような激痛が脳天に走り回り、涙がこぼれそうになる。けれど、今ここで止めたらもう二度と動けない。その思いだけでシロは、再び死に物狂いで手を伸ばした。

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