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■ 凍えるように小さな声で 7

 ずるずると、わずかな距離を少しずつ這い進める。それを何度も何度も繰り返し、ようやくマットレスのところにたどり着いた頃にはシロの体力は限界に近かった。マットレスに倒れ込んで、呼吸を整えることにだけ集中する。吸って吐いて、また吸って吐いてを繰り返すうち、ごくごく僅かにだがマットレスに触れている部分の身体が熱を帯びてくるのを感じた。
 じわりと温まる身体にほっとして、選択を誤らなかったことを知る。倒れ伏したままよりは、確実に一歩凍死から退いた。このままじっとしていれば、もう少し回復するだろうか。ここにずっといても、それは死を待つのと同じだ。まずはここを抜け出して、誰かに助けを求めなければならない。

 ──助けを求めて、……クロかアオにでも迎えに来てもらって、…………それで……

 それで、と考えたところで思考が止まる。
 ユキの記憶は、失われてしまった。以前の記憶が戻ってくることは──記憶を失う前の“ユキ”が戻ってくることは、きっと、ない。ならばシロがすべきことは一つしかない。

 ──番い解除の手続きを取って……あの家も、ディーノも、ユキと俺の二匹の名義になっているのを書き換えて……

 シロがユキの番いであることは、ユキがもう少し回復したら告げようと思いながら、告げずにここまで来てしまったけれど、いつまでも隠し通してばかりもいられない。きちんとしなければ、と、そう思うたびに、胸の奥の一番柔らかい部分がどうしようもなく痛む。

 ──ユキは……反対なんか、しないだろうな……

 シロはもう“他人”だと言い切った彼だ。“他人”になる手続きをすることに、不満など抱こうはずもない。
 ユキと二匹で暮らした家は、彼に明け渡すためにシロの荷物は全て片付けた。ディーノももしかしたら、片付けなければいけないのかもしれない。だがあの店を手放したら、シロはもう、他の場所で“ディーノ”をやれる自信はなかった。シロの“ディーノ”はあの立地の、あの佇まいの、あの広さの、そしてユキと二匹で作り上げたあの店でしかあり得なかった。身一つで田舎を出てきたシロに、仕事と仲間と居場所を与えてくれたのは、あの店──ユキだった。

 ふと、頬が濡れる感触がして、知らず閉じていた目を開く。重い目蓋を持ち上げて、頬をひたり、またひたりと濡らす先を見上げる。岩窟の裂け目の頭上遥か高いところから、白い雪が舞い降りてきていた。

 ──雪……

 湿度・気温共に絶対零度を記録する、首都でのみ見られる細雪。僅かな隙間からも入り込んで、生きとし生ける者の命を奪う。白い悪魔と恐れられるそれが、シロの横たわる岩窟にも訪れていた。
 さらさらさらさらとこぼれ落ちてきて、シロの身体の上にも少しずつ降り積もる。もはや振り払う力もないシロの身体から少しずつ体温を奪っていく。唯一最後に残った痛覚さえも、情け容赦なく奪っていくのだろう。
 ようやくたどり着いたマットレスだが、ここを再び離れて、雪の手の届かないところへ行かなければならないと頭ではわかっていたが、動きたくなかった。動けなかった。寒い時はいつも包んで温めてくれたユキがいない今、せめてユキと名の通う雪に包まれていたかった。

 ──もう、いいかな……

 寒さも痛みもなくなってきて、シロは段々とつらいとも苦しいとも思わなくなっていく。ただただどうしようもない淋しさに、心が喰われる。
 ユキがシロを忘れてしまったこと、シロはユキのことを知っているつもりでほとんど知らなかったこと。そしてそんなシロのことを、今のユキは必要としていないこと。
 悲しかった。つらかった。でも今はそれ以上に、どうしようもなく淋しかった。淋しくて淋しくて仕方がなくて、雪のせいでなく頬が濡れていく。
 こぼれ落ちる涙を止めることができない。

   +++

 ずるり、と何かから引き上げられる感覚が感じられて、沈み込んでいたシロの意識が浮上する。

「馬鹿か、お前」

 罵倒する言葉の意味よりもその声が耳を打って、シロは僅かに目を開ける。
 力強い腕と、筋肉の乗った体躯。体格に見合った太い首と、だらしなく伸びた髪。
 その先に懐かしい琥珀色を見た。

「トキ、さ……」

 凍えきった言葉はひゅうひゅうと喉を通る風にしかならなくて、意味のある音として発することができなかった。だが彼はそれに眉をひそめて、シロの身体を抱えあげる。
 じんわりと伝わる体温。もう二度と会えないかもしれないと思ったひととのまさかの邂逅に、シロの瞳が勝手に潤み、涙を形作る。

「トキさん……っ、おれ………、っ……」

 堪えきれない嗚咽が喉をついて、溢れるのを止められなかった。呻くだけで、ぼたぼたと落ちる涙を拭うこともできない。
 そんなシロにトキは何も言わない。慰めなんか言わない、そのことが無性にありがたかった。

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