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■ 凍えるように小さな声で 8

 最後に残った力を泣くことに費やしてしまったシロは、その後あっさりと意識を手放した。その様はまるで使い古されて捨てられたボロ雑巾のようで、見つめるトキの胸も僅かに痛む。
 3年前別れた時には赤子のようにつるつるで抜けるように白かった肌も、今やぼろぼろで、荒れ果てて薄黒い。降り積もった雪のように白くふわふわだった髪も全体的に汚れ、ダウンタウンの浮浪児よりも酷い有様。手足は不自然に蒼白で、凍傷になりかけているのは明らかだった。

「お前のこんな姿、親御さんが見たら泣くだろうが」

 シロの両親の、ひとのよい顔を思い出して思わずため息をつく。山で採れる果物の加工を生業としていた彼らは、よくトキのところにもそれを持ってきてくれた。余計な添加物など一切加えられていないそれは、しかし十分に甘くおいしく、実の一つ一つを丁寧に煮込んで丹精込めて作ったのだろうということを感じさせた。
 そんな彼らは、まさか大切な一人息子がこんな状態になっているとは夢にも思わないだろう。よっこらせと肩に担ぎ上げて、あまりの軽さに顔を顰める。ため息をもう一度吐いて、トキはその岩窟を後にした。



 岩窟を奥へ奥へと進んだ先に、一つの扉がある。
 それは周囲の岩盤に馴染むように作られているため、一見しただけではそれが人工物であることすらわからない。トキはその扉をゆっくりと、音を立てずに開けた。その先に続く光景は、一転してごくごく普通の廊下。庁舎や企業ビルの中を縦横に走っているものと全く変わらない。近代的にして一般的な廊下だった。
 踏み出した足に合わせて靴底が、きゅっ、と鳴く。床材を嫌がるブーツをそのままに、キュコキュコと音を立てながらトキは廊下の先へと歩を進めた。廊下を抜け、階段を昇り、また通路を抜けた先で、背後から小さな声が上がった。

「トキさんっ……!」

 パタパタと掛けてくる軽い足音に、トキはようやく足を止める。走り寄ってきたのは小さな子ども。オレンジ色の猫のようにも見える。だがよく見ればそれは紛れもなく、ライオンの子どもだった。

「大丈夫だった?」

 心配そうに見上げるライオンの子に、トキは軽く頷く。

「俺はな。けど、この馬鹿がヤバい」

 肩に担いだままのシロの方を顎でしゃくる。白猫に視線を移した子どもは、その状態に顔をしかめた。

「うわ……」

 呟いたまましばし言葉をなくす。だがすぐに顔を上げて力強い目でトキを見、一つ頷いた。

「はやく、こっち!」

 パタパタと走り出した子どもの後をトキがゆったりと追う。

「悪ぃな」

「大丈夫!ここには誰も来ないから!」

 二匹は廊下の突き当たりにある扉の中にするりと入り込む。狼とライオンの子を含んだ鉄の扉は、ゆっくりゆっくりと音もなく閉まった。


   +++
   +++


 ──あれ……?

 ぼんやりとした意識が浮遊している。明るい光が視界を白く染める、それはまるで自宅のサンルームのようだとシロは思った。

 ──おれ、昼寝してたんだっけ……?

 暖かな陽射しの降り注ぐ午前中はサンルームに寝っ転がって昼寝をするのが、シロの休日の過ごし方。ユキはそんなシロを抱き寄せながらいつも本を読んでいた。シロにはさっぱり内容などわからない難しそうな本を、しかも原書で。諸国で出版された本を色々と個人輸入していて、それをまた辞書もなしに読めるのがユキという男だった。

 ──ユキはほんとにすごい

 目覚めたシロが、目の前に開かれているけれど意味など一つも取れない本を眺めてそう言うと、ユキはいつも少し照れたような笑みを浮かべて『大したことないよ』と言った。

『こんなものは慣れだし。それに俺からしたら、シロさんの方がよっぽどすごいよ』

 俺は料理なんてできないと嘆息する、それは事実だったからシロは少し誇らしくなる。世界でも屈指の明晰な頭脳を持ち、複数言語を自在に操るユキだったが、料理だけは本当に不思議なくらいにダメだった。
 陽だまりの中でユキの体温を感じながら、他愛もないことを話して笑い合う。そんな日々が幸せで、大切で、たまらなくて、無性に胸が苦しくて泣きたくなる。涙がこぼれそうになる直前、視界は突然ぐるりと廻って、漂白されたように白く無機質な集中治療室の扉へと変貌した。

 ──ユキ、ごめん……ごめん

 あの時、シロが黒牛に捕まらなければ、ユキが大怪我をして生死の境を彷徨うことなどなかった。いや、それ以前にヒナに話し掛けなければ。店に招き入れなければ。いやそれとも、ヒナを店に留めて詳しい話を聞いて相談に乗っていたら、状況はまた違ったのだろうか。
 後悔はとめどなく溢れてきて、胸の奥が、肺が、胃がキリキリと痛む。何をしても何を掴んでも、感覚は一枚膜を隔てたように薄っすらとしか感じられなくて、まるで現実味を帯びない。ならばいっそ全てが、夢だったらいいのに。
 ユキが怪我したことも、ヒナが死んだことも、広場で大勢のひとが爆発に巻き込まれて亡くなったことも。

 ──きんいろの、らいおん……

 明るくて憎めない笑顔で、腹が減ったのだと言った。食事をさせて問い詰めたら、スパイスの香りに惹かれたと白状した。昔住んでいたところの近隣に、同じ匂いをさせる店があったのだと言って。

 ──そうだ、スパイス……

 あの時引いていたスパイスは少々特殊なもので、レース・プーブリカ共和国内は無論のこと、他国でもそう簡単に手に入るものではない。輸出が禁じられていて、はるか遠方の原産国からほとんど外に出ないのだ。あの時シロはたまたま、伝手があって手に入れたけれと、それだっていつもという訳にはいかない。なのに、その香りをいつも漂わせていた店があったという。

 ──ヒナは、あのスパイスの原産国で育った……?

 だが、かの国は排他的なワニの王国だ。ライオンのヒナがそこで育ったというのは考えにくいような気がする。そこでは暮らせなくて、だからレース・プーブリカに不法な手段で入国したのだろうか。それとも、それとはまた別の事情で飢えて、……挙げ句の果てに、爆死という最期を遂げなければならなかったのか。
 痛む胸を抑えようと、手のひらが胸のあたり握りしめる。服を掴んだ感覚が指先に伝わり、さらに強くぎゅっと握りしめる。
 ゆらり、と白く明るい視界の向こう側に揺らめく色がかすかに見える。それは先ほどまで思い出していた、ヒナの金色に似ていた。

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