■ 凍えるように小さな声で 9
水底に沈んでいた身体が急に水面に浮上するように、シロの意識は突如として覚醒し、ぱちりと瞳を開いた。大きく見開いた眼にまず最初に映ったのは、こちらを不安げに覗き込んでいるオレンジ色の子猫。
──ちがう……ライオンの子だ
瞳孔の細い金色の瞳がきらめく様は、まさしく上位種の証。獲物を噛み砕く牙も切り裂く爪も未だ持たずとも、その子どもは猫の子ではない。先っぽだけがふっくり膨らんだ尻尾と丸い耳、猫の子どもよりも太くがっしりとした手足を持ったその子は、紛れもなくライオンの子どもだった。
丸く厚い耳は、シロにユキの幼い頃を思い起こさせる。また、子どもの頃のユキよりもずっとふかふかしている毛並みや、夕陽にも似たオレンジ色はシロの心を和ませた。
「……っっ!」
声を掛けようと口を開いた瞬間、頭に激痛が走る。あまりの痛さに目の前が真っ白になって、思わず歯を食いしばった。
「じっとしてろ」
切り裂くような痛みの中、耳触りのいい低い声が届く。涙の滲む目を細く開けると、いやに懐かしい姿が映った。透き通る琥珀色の瞳、伸びっぱなしの錆色の髪、ホウキのようにふさふさとした大きなしっぽ。3年の月日が経ったとは信じられないほど何も変わっていない。師匠であり友人であり、そしてかつては恋人であったこともあるサビ色の狼──トキの姿が、そこにはあった。
痛みに震え、ぐらぐらするシロの頭をトキの節くれ立った、しかし存外繊細に動く指が髪を掻き分ける。その指が地肌に触れた途端、また痛みが脳髄を駆けめぐった。
「いっ………つっ……」
トキはそこに二度三度と触れてから、傍らに積んであったタオルを当て、その上からさらしを巻きつけてきつく縛り上げる。痛みを噛みしめるシロを横目でちらりと見て、そのまま端と端を結んで留めた。
「でっけぇコブが出来てる。一応薬は塗ったが、中身が無事かどうかは俺にはわかんねえから、病院で精密検査して貰え。脳内出血、脳挫傷の可能性もないわけじゃないしな」
端的に告げられた言葉が、痛みにぼんやりとするシロの頭に時間をかけて染み込み、ゆっくりと理解された。あの岩窟のごみ捨て場では氷点下近くまで下がった気温に震えるだけで、痛みすらよくわからなかったから、怪我をしているなんて気づきもしなかった。
「おれ……ころんだ……?」
知らぬうちに転んで、あの岩盤に後頭部を打ち付けたのかと尋ねると、トキは呆れたような目でシロを見る。
「んなわけあるか。殴られて、昏倒させられたに決まってんだろうが」
「……こん……とう……?」
「シロさんは、ここの地下室に閉じ込められてたんだよ。それは覚えてる?」
ぼんやりしているシロにライオンの子が、そっと窺うように問いかける。だがシロはそれにも首を傾げた。
岩窟にいたことは覚えている。この子の言う地下室とは、あそこのことだろうか。
血の巡りの悪いシロにトキはため息をついて、ガリガリと自分の頭を掻く。それからやや乱暴にシロの手首を掴んだ。トキの指にはさほどの力は入っていなかったはずだが、ギシリと軋むように痛みが走る。その痛みにシロは鋭い悲鳴を上げた。
「ここは、ズローの地下本部。首都直下にあるってのが奴らの“売り”なわけだけど……、最下層は地下岩窟につながってる。お前は、ルングの仲間に殴られて昏倒したところを連れて来られたってわけだ」
「トキさん。ルングって言ってもわかんないんじゃ……」
痛みに耐えることで精一杯、何も答えられないシロの代わりにライオンの少年が戸惑いがちに口を挟む。
指摘されたトキは、チッと舌を鳴らして、苛立たしげに補足した。
「ルングってのは、黒牛の男だ。ズローの幹部」
痛くて痛くて死にそうなのに、トキはそんなシロの心情には全く頓着してくれない。シロの手首を掴んでそのまま、指を桶にぞんざいに浸す。ぬるま湯を溜めてあったらしいそれに浸されるだけで、指先には裂くような痛みが走った。温かい屋内に入り、血行の戻ったシロの指は両手足全てが赤紫に腫れ上がり、次第に後頭部だけでなく四肢までじんじんとした痛みを訴え始めている。そんなシロの手足の指一本一本をトキはぬるま湯に浸し、温めてから軟膏を塗り布を巻いてくれるつもりらしかった。だがその治療が尋常でなく痛い。
うぐうぐと涙を滲ませるシロをトキはちらりと見て、またすぐに視線を手元に戻す。
「理解したか?敵の本拠地ど真ん中、お前は死にかけ。OK?」
痛みに打ち震えながら話を聞く。返事もできないシロに、トキは淡々と話をした。ここはレース・プーブリカ共和国の首都にあるダウンタウンの一画、至って普通の雑居ビルと見せかけて実は“ズロー”の本拠地。まんまと捕まったシロは、他国に売り払おうという話も出たが結局、生かさず殺さずということでここの地下岩窟に放り込まれたことなど。
「……トキ……さん……」
「何だよ」
シロの呼びかけに、イライラした態度ながらも答えてくれたトキの目を見上げる。澄んだ琥珀色の瞳。一緒に働いていた頃──恋人と言っても差し支えない関係であった頃、その瞳は、時に甘く溶けたり優しく潤んだりもした。けれど、雇い主と被雇用者という関係の中では、時々手負いの獣みたいな危険な光が宿ったりもしたのだ。それは例えば、すっごく疲れてる時や、思うようにならない状況が重なった時。そんな時の、トキの「俺の気に障ることをするな」オーラはすごかった。
だからきっと今も、そっとしておくのが一番なのだろうと思うのだが。
「ズローって……なに?」
乱れる呼気の下から端的に尋ねたシロに、トキは案の定絶句した。
「おま…………」
絶句して数秒、深くうなだれる。そんなトキの横で、少年もまた微苦笑を浮かべていた。
壊死しかかっていたらしいシロの指は、軟膏を塗り、布が巻かれるだけでも刺すような痛みが走る。神経を通って脳髄にまで痛みが達し、目の前が真っ赤に染まるようだった。
「……っく」
目尻に浮かんだ涙がこめかみに沿って流れる。ボロボロとこぼれるシロの涙を、小さな手がそっと拭う。あの子だ、と涙に溺れる視界のこちら側で思うけれど、走る痛みに耐えるのが精一杯で、何も言葉にはならなかった。
変色してしまったシロの両手両足の指に、トキは丁寧に布を巻いていく。上下二十本あるうちのほとんどが凍傷を起こしかけていて、さらに右手の人差し指と中指は、爪が割れて剥がれかけていた。血が滲むそれを洗い流し、ガーゼを当てて布を巻く。それがようやく終わる頃には、シロは痛みのために息も絶え絶えな状態だった。
ぐったりと力を抜き、小さく震える呼吸を繰り返す。そんなシロをトキは鼻で笑った。
「酷え有様だな、おい」
トキの店で働いていた頃、シロが引火爆発を起こして店を半壊にした時と同じ顔で同じことを言う。だが、思えばトキは昔からそうだった。日々の小さなことでは怒りもしイラつきもする癖に、事態が大事になればなるほど妙に泰然としている。そんな様子ががおかしくて懐かしくて、痛みに震えながらもシロの口許には笑みが浮かんだ。そんなシロを見つめて、トキは小さくため息をつく。
「笑ってる場合じゃねぇだろうが。死に損ないが」
悪態をつきながらもトキは、シロの口の中に痛み止めらしき錠剤を放り込んでくれる。さらに水を流し込んで貰って、やっとのことで嚥下する。顎から首もとへと、含みきれなかった水が流れ落ちる。早く早く効いてくれと願いながら、投げ出したままの己の手足を見つめた。
そんなシロをしばし見つめて、ライオンの子は「痛み止め、もっと持ってくるね」と言って部屋から出て行く。先がふくふくしたしっぽが扉の向こうに消えるのを見送った。