■ 凍えるように小さな声で 12
「しっかし、あのユキが記憶喪失とはねぇ……。あいつは首だけになっても仇の腕を食いちぎるような、そんな奴だと思ってたけど」
恐ろしい言葉をぬけぬけと発したトキに、シロは思いっきり顔をしかめた。
「何それ。首だけになっても食いちぎるとか恐いんだけど」
だがジロリと横目で睨む顔にも狼はへこたれることなく、カラリと笑って見せる。
「イメージだよイメージ。執念深そうじゃん、あいつ。図太そうっていうか」
「そんなことないよ!ユキは昔から繊細だもん。ひとの感情にもすごく敏感だったし」
「他人の感情に敏感なのは、お前を取られまいと常に周囲を威嚇してるからだろ?それにあいつ……繊細、か?」
首をひねるトキに、シロは小さくこくりと頷く。
「繊細だし、神経質……だよ。仕事ではもちろんだけど、プライベートでも。…………俺、未だにトキさんと関係あったこと、ユキに恨まれてるんだよ……」
「ぶはっ!」
小さく消え入りそうなシロの声にトキは大仰に吹き出す。そんなトキを、シロは顔を赤くして先程よりもさらに強く横目で睨んだ。
「え、何?ユキって処女とかそーゆーの気にすんの?」
「しょ……いや、そういうことじゃなくて。…………いや、そういうことかもしれないけど。ユキにずーっと前から告白されてたのに、それに応えないでトキさんと付き合ったのは、酷いって」
「二股かけてたわけじゃなし。ユキのことはちゃんと振ったんならいーじゃん」
「振った……というか、ユキがおおきくなってからもまだ想ってくれると思ってなくて……」
返事してなかった、と小さく呟くシロの言葉にトキは苦笑を漏らし、それから天井を仰ぐ。
「まぁ……お前らはちゃんと番いになったわけだしな。今更、過去のことをグダグダ言うなって気持ちはわからなくもないけど。あいつだって遊んだことないわけじゃないだろうに」
プフーと息を吐きながらのトキの言葉に、白猫は小さな背をさらに縮めた。
「ないと思うよ……」
「何が」
「……遊んだこと。ユキは俺とするまで、誰とも関係持ってなかった」
「まじか!」
ぶ、と吹きかけて口を覆う。そんなトキをシロはもう睨まなかった。ぐったりと項垂れる。その隣でトキはなおも手のひらで覆い隠した下で、ぷくくと笑う。その背後で大きなしっぽはバッサバッサと揺れた。
「童貞献上……それはまたご大層な」
肩を震わせること数秒、しばし笑って満足したらしいトキは、ごほんと咳払いをしていずまいを正した。
「まあ、俺と関係あったのは事実だけど。でもお前にとっては昔からユキは“特別”、だろ?」
横目でシロを見る、トキの表情は読めなかった。だがシロはその言葉にこくりと頷く。その顔には決意が滲んでいた。
「だって、“俺の” ユキだもん」
真っ直ぐに前を向く瞳に揺らぎはない。幼い頃から可愛がって慈しんできたシロの子猫、それが“ユキ”なのだと。
「なら、そう言ってやれよ。拗ねてぐずってんなら、引きずってでも連れ戻して来い」
シロからゆっくりと目を離し、トキは手許に視線を落とす。その横顔に表情らしいものを読み取ることはできなかった。ただ、低く落ち着いた、穏やかなトキの声だけが厨房に響く。
「お前の“猫”なんだろ?なら、家を忘れて帰って来ないからって、いつまでも迷子のまま放っとくな」
言い聞かせるように響く言葉、それにシロはしばらく黙り込む。それからゆっくりと、だがはっきりと頷いた。
「そうする」
そう答えたシロの小さな声を聞き届けてから、ソラは気づかれないように音がしないように厨房の扉をそっと閉めた。
──すっごく、入りにくい雰囲気だ……
薬箱からこっそり持ち出してきた痛み止めをポシェットの中にしまって、ソラはくるりとUターンをする。そして目の前に続く廊下を戻ることに決めた。
料理人になってからこの方、半年以上同じところに留まったことがないというトキが唯一、ルースという田舎町には5年もの長きに亘って定住した。その理由は、“弟子”に料理を教えていたからだというのは以前トキ自身がソラに語ったことだ。
だがその“弟子”もまた5年前にルースの町を出て、彼は他のひとと首都で店を営んでいるというので、ソラはトキに『なぜその“弟子”と一緒に首都で店をやらなかったのか』と尋ねた。その答えは、旅が好きだとか首都は好きじゃないとか、ごにょごにょと言っていたけれど、結局のところ明確な答えはなかったと思う。仲違いしたわけではないのだなと首をかしげたものだ。その話をソラから間接的に聞いた兄は、いかにもわかった風な顔で『チジョーのもつれだろ』と断言をした。
ルングの下で働いていた兄は、このズロー本部に戻ることはあまりなかったけれど、戻ると必ずソラの顔を見に来てくれた。そして時間の許す限り、兄のいない間のソラの話を聞いてくれる。そしていつも独断と偏見に基づいたコメントを寄せてくれた。
『チジョーのもつれ』云々もトキから直接聞いたわけでも何でもなく、ソラ経由で聞いた話から勝手に兄が想像したものだ。だから信憑性は限りなく低く眉唾物だと思っていたが、今覗き見たトキとシロの様子からするとあながち間違ってもいなかったのかもしれない。
──兄ちゃんの言うことって、いつもちょこっとだけ当たるんだよね……
あまり深く物事を考えない質の兄の発言には“正鵠を射る”という程の正確さはない。けれど“当たらずしも遠からず”といった程度の命中率はあって、物事が終わった後になってから、間違ってはいなかったのだなぁと思わされることが何度かあった。正確とは言い難い精度であるから、判断材料としては全く役に立たない。後から考えてみると意外と間違ってはいなかった、といった程度ではあるのだが、今回もまた、“もつれ”てはいないが“チジョー”は絡んでいる、程度の当たり具合ではあったのかとも思う。
──大体、兄ちゃんはいつも適当なんだよ
ブツブツと考えながら歩くうちに、次第次第にスピードが落ちていつしかソラの足は止まってしまった。広い廊下の真ん中でぽつんと立ち止まる。ソラの小さなオレンジ色の丸い耳は、ぺしょんと横向きに倒れていた。