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■ それは陽だまりに似た 4

「………………、……シロさん?」

 その硬い声に耳を疑う。一瞬の後、じわりじわりと懐かしさがこみ上げてきた。

「クロ!」

 ディーノを共に営む仲間であり、シロの友人、黒犬のクロからの電話だった。

 ──なんで、どうして?

 トキの端末に何故クロが掛けてくるのか。いや、それよりも。

「ねえクロ、ユキは?今家にいるんだけど、ユキがいないんだよ……!」

 冬が始まったレース・プーブリカ共和国内を無駄にうろつく馬鹿はいない。ユキは職業柄真冬に呼び出されることも珍しくなかったけれど、その時も必ずセントラルヒーティングは稼働させたまま出掛けた。暖房を消して出掛けてしまうと帰宅してから暖房が付くのを待っている間に凍死する恐れがあるからだ。
 でも今、この家は暖房装置は何一つ稼働していない。

「…………ユキさん、いませんか」

 妙に落ち着いたクロの声に、シロは口を閉じてじっと待つ。電話の向こうで、すっと息を吸い込む音が聞こえて数秒、クロははぁっと息を吐き出した。

「恐らく、ユキさんは闇ブローカーのところに向かったんだと思います。シロさんを救出するために」

「え、俺?」

 突然出てきた自分の名前に思わず端末を耳から外す。端末上部に付いた小さな穴から、『ええ』というクロの声が響いた。

「シロさんは闇ブローカーの組織に拘束されていたんじゃないですか」

「うん……ズロー?っていう闇ブローカー組織の本部に捕まってたけど」

「ならそこに、」

「でも」

 食い気味に話をしようとしたクロの言葉を遮る。でも。

「でもあのビルにはユキは来なかった。それは間違いないよ」

 だって、シロは“生かさず殺さず”の交渉材料として地下洞窟に放置されたのだ。ユキが来ていた、もしくは向かっていたのならあの洞窟から連れ出されていただろう。トキに助けられて、またあそこを通って海に出るまで、洞窟に足を踏み入れたものはなかった。シロの不在に気づかれた気配はなかったのだ。
 この家のセントラルヒーティングは完全に停止していて火の気もない。数時間前に止めてもこうはならない。ユキがこの家を出たのは半日以上前のはず。すれ違いという可能性も考えにくかった。それよりも、むしろ。

「むしろ、ユキは俺がいたのとは別のところに向かったんじゃないかな……妙に手薄だったんだよね、あの建物」

 シロがいたあの場所は、地下本部なのだとトキは言っていた。上は首都によくある何の変哲もない雑居ビル、その地下が本部なのだと。しかし、その本部ビルの中をシロはトキが治療を施してくれた厨房から洞窟まで、数人をやり過ごしただけで特に問題なく移動することができた。窓から見えた出入り口付近にはひとがいたけれど、内部ではほとんどひとに会わなかったのだ。
 普段からそんな状態ということはさすがにないだろう。リーネア・レクタの──中央機関の統括官が直々に別の事務所に監査に入ったから、そちらに人員を割いたと考える方が自然だ。

「つまり、ユキさんはあえて別のところへ向かった、と?」

「わかんないけど。でもそのお陰で俺がすんなり逃げられたのは事実だよ」

「まあ、そうだと仮定すると。ユキさんは今、一体どこにいるんでしょうか」

「さあ……」

 シロに聞かれても困る。シロが知っているのは地下洞窟が海に繋がっていた、あの場所だけだ。
 シロは、首都の地下に自然の洞窟が広がっていることさえ知らなかった。あのような場所は他にもあるのだろうか?漁師のスミなら知っているかもしれないが……。
 聞いてみようかと思って目線をめぐらせたシロの目が、不意にあるものを捉えた。
 開いたままの金庫の中にあった、デスクトレイ。おもちゃ箱さながらにユキとシロの思い出が詰められた箱の中に、見覚えのないものが一つだけ。花柄の千代紙で折られた、折り紙のコスモス。端と端をきちんと重ねて折られているそれは、間違いなくユキが折ったものだろう。几帳面で丁寧なユキは折り紙が得意だった。よく二匹で折って遊んだから、箱の中に折り紙が入っていること自体には何の不思議もないのだが。

 ──こんな綺麗な紙、うちにも学校にもなかったよね……?

 折り紙といえば、いらない紙を貰って折って遊ぶもので、わざわざ綺麗な紙を用意してくれる大人などいなかった。また、用意してくれたとしても色付きの無地の折り紙がせいぜいで、この首都ならばどこにでもある千代紙も、シロたちの田舎にはなかったのだ。そしてコスモスだのあじさいだのを折るだけならば、無地の色紙で十分だった。
 花柄のコスモスを手に取って眺める。ピンと張った紙はよれも無く綺麗なまま。まるで昨日か今日、折ったばかりのように。

「シロさん?どうしました?」

 クロの呼び掛けが響く端末に、ごめんちょっと待ってと一言言い置いてそっと床に置く。それから恐る恐る折り紙のコスモスをほどいた。きちんと一筋一筋折られた花を、逆に一筋一筋解いていく。そうして花が一枚の紙に戻った時、そこには一つの文字列があった。

 ──#R86725……?

 流麗なその筆跡は間違いなくユキの字だ。

「クロ!シャープR86725って何かわかる?!」

 急に端末口に怒鳴ったシロに、クロは一瞬黙り込む。それからゆっくりと言葉を紡いだ。

「R以下は、リーネア・レクタで使われる場所を表す記号ですね。Rはリーネア・レクタ、つまり中央機関です。86725は86階の725号室──ユキさんの執務室です」

「ユキの執務室?!なんで?」

「なんでと言われても……。そもそも何なんですか、いきなり」

「ユキからのメッセージかと思ったんだ……こんな、隠すみたいに書いてあるし……」

 田舎にいた頃に折ったとは思えない折り紙の花の中にこの記号が書いてあったこと、それが間違いなくユキの字であることを話すと、今度はクロの方も黙り込む。二人の間に落ちた沈黙を裂くようにクラクションが鳴った。

「あ、そうだ……ごめん、スミさんを待たせてるんだ」

「スミさん?スミさんって、いつも店に魚を卸してもらってる、漁師の?」

「そう、助けてもらったんだ。行かなきゃ。落ち着いたら、また後で掛け直すから」

 通話を切ろうとした瞬間、クロが慌てたように叫んだ。

「ちょっと待ってください!スミさんに助けてもらった、って?そもそもシロさん、この端末トキノ・ピルキスのものですよね?なんでシロさんが持ってるんですか?それに落ち着いたらって、」

「ごめん!話すと長くなるから、また後で!」

「ちょっ、待っ」

 ごめんと心の中でもう一度謝り、えいっと通話を切る。静まり返った部屋に再度クラクションが鳴り響き、シロは慌ててデスクトレイを金庫に戻し、きちんと施錠してから階下へと降りた。
 バタバタと玄関を出ると、車の前に立ったスミが恐い顔をして睨んでいる。貫禄のあるシャチに睨まれたシロは、ピッとしっぽを立てた。

「随分とお支度に時間がかかるなぁ、シロちゃん~?」

「ご、ごめんなさ……」

 頭を下げようとしたシロの身体をスミは強引に車の中に押し込んだ。暖房の温風が身体に当たり、あったかいと感じた途端に身体が震え出す。カタカタと震えて歯が合わなくなってからようやく、寒さも感じないほどに冷え切っていたのだと気づいた。

「ああもう、痛み止めなんか飲ませなきゃよかったな」

 ブツブツ言いながら毛布でくるんでくれるスミに、申し訳なさから目を伏せる。でも、ここへ来る途中にスミに貰った痛み止め、あれがなければ今頃は激痛に苦しんでクロとまともに話すら出来なかったかもしれない。
 温まり始めると急に、濡れたままの服も包帯も芯から冷え切っていることや、包帯を引き剥がしてしまった右手の凍傷が腫れ上がってジンジンとした痛みを訴えていること、後頭部の打撲傷が再び出血していることなどが感覚として伝わってきた。出発した車のかすかな振動をどこか遠く感じながら、目を瞑る。澱みのように蓄積した疲労、それに足を囚われるように眠りの中に倒れ臥しながらも、シロはユキのことを思った。

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