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■ それは陽だまりに似た 6

 それは郊外に点在する家々の、さらに外れにひっそりと存在していた。
 建物の入り口にはCLOSEDと記されたプレートが無造作に引っ掛けられ、剥き出しの赤錆の浮いたパイプが月光に浮かび上がって殺伐とした雰囲気を演出している。廃墟と成り果てたかつての豪邸――そんな様子だが、ユキの残したメッセージが“国道267号線、上り方面58番目”ならば、ここがただの廃墟はずがなかった。

 ――しかも、アレ……

 アーチ型の真鍮の門扉の向こう側には、枯れ草の上に積み上がった雪がこんもりとした丸みを見せている。明かりのない夜のこと、その先はほとんど見通せない。だが猫の目は薄明の中にも息づくものたちの影を的確に捉えた。石畳などとうの昔に失われた庭のそこここに潜む気配は、この屋敷の最大限の警戒を物語る。

 ――ユキはやっぱ……、本邸の中かな

 これだけ侵入者に警戒しているのだ、邸内を自由に闊歩している可能性は皆無だろう。“リーネア・レクタの統括官”としてここにいるのならば歓待という名の束縛を受けているだろうし、もしそうでないなら……猶更、だ。
 ギィギィと嫌な音を立てて警告を発するプレートを横目に、シロは雪を被ったままの枯れ草の中に身を屈めた。
 冬の夜、極寒のこの地では虫の音さえも聞こえない。吹き抜ける風の音だけがして、耳が痛くなるほどの寒さと静寂の中、シロはじっと身を潜めて神経を尖らせていった。
 風に吹かれた葉末が揺れる。その残像がすうっと軌跡を描いて消える。ピリピリとした緊張。体毛の一本一本で庭内の敵の気配を察知する。刃のように研ぎ澄まされていく感覚。先ほどまで身を苛んでいた痛みが、……消えた。
 一気に走り抜ける。
 シロの動きに草が揺れるよりも速く、雪が滑り落ちるより先に、音もなく馳せる。叢に潜む獲物に気づかれぬように近づくスキルは、猫科の本能と言っていい。それが敵であっても同じことだ。
 庭を越え、草に埋没した石畳を超えて、枯れ果てた噴水を通り過ぎる。白い雪の塊となった、かつての庭木の隙間から、遠く右手に黒い大きな邸宅が見えた。左右対称に三角屋根を据え、その間には一階に三連アーチ、二階には高欄を巡らしたベランダが設けられている。その二階の右側の窓に煌々と明かりが灯っていた。
 かつては美しく咲いていたのであろう、枯れた薔薇のアーチの陰に潜り込む。そこでようやく息を吐いた。庭内の見張りの位置は最前と変わらず、まだシロに気づいていない。片目だけを陰から出して、そっと洋館の方を窺った。
 傾斜の台地上に配置されているらしい館は、庭からもその存在を存分に眺めることができる。石材の色なのか全体が黒々としていて、一面が雪原と化した庭の中ではかなりの威圧感があった。窓枠だけがぽっかりと口を開けたように白く、近づくものを呑み込もうとしているようにも見える。邸内にはひとの気配。不用意に入り込めばあっという間に見つかってしまう。満身創痍の今のシロでは、太刀打ちすることはおろか、逃げ出すことすらかなわないに違いない。
 下手に動き回るのは危険だ。二階の明かりの灯った部屋へ直接行きたい。だがそれが成せない、凍傷の手足が憎い。

 ――こんな怪我さえなかったら、庭木から飛び移れるのに

 窓近くにちょうどよい雪山が見えるだけに、いつもだったらと思わずにいられない。だが無理をして庭に落ちたりしたら目も当てられない。気づかれぬように屋内に侵入して、二階を目指すしかないだろう。だが、一体どこから入ればいいのか。
 見回したシロの眼に、邸宅横の小さな小屋が映った。物置小屋だろうか、粗末なあばら家が雪の中ちんまり立っている。

 ――あそこからは、ひとの気配がしない……

 木陰を離れて、足音を忍ばせて近づく。扉には鍵穴さえなく、錆び付いた把手が付いているのみだった。ゆっくりと、音をさせないように引く。長らく開けるものもなかったのか、少し力をこめた程度ではびくともしなかった木戸は、三度目に引いた時、ようやくギギギという音を立てて開いた。
 慌てて戸を引いた手を止める。そうっと周囲の気配を窺うが、小屋の方に近づいてくる気配はない。またゆっくり、ゆっくりと力を込める。ギ、……ギギ、と音をさせながらも木戸はシロ一匹が通れる程の隙間をようやく開けた。
 中を窺ってから、そっと忍び込む。ゆっくりと戸を閉めてから、ほっと息を吐き出した。
 小屋の中は真っ暗で、窓一つないために一筋の月光さえ洩れ込まない。だが空気はカラカラに乾いていて、シロが僅かに動くだけで積もり積もった塵埃が舞い上がるのがわかった。完全なる密閉空間。ここならとりあえずは見つかる心配はない。

「本邸に繋がる隠し通路でもあれば完璧なんだけど……さすがにそれはないか」

 端末を取り出して点灯させる。だがその微かな明かりを向けても、三メートル四方しかない小屋の中には古びた庭道具が浮かび上がるだけで、役に立ちそうなものは何もなかった。

「ああ、でも前は電気が通ってたのか」

 床に落ちた電気配線を見て呟く。天井には切れた電気線しかなく、ランプは小屋の隅に放置されていた。窓さえないのだ、照明は当然取り付けられていたのだろう。

「ん……でも本邸には電気が通ってたよな……?」

 暗闇に煌々と灯っていた明かりを思い出す。回路が同じならば、ここにだって電気は通っているはず。電線が切れて外されてしまっているから、ランプが点らないだけで。
 小屋の中は、端末のライトに反射した埃がきらきらと光っていた。ふうっと吹くと軽く舞い上がって、落ちてくる。それを見て、シロの頭に一つのアイデアが浮かんだ。
 壁に備え付けられた棚の中を一つ一つ覗いていく。ホウキやちり取り、高枝切り鋏や脚立があるのを見て確信する。この小屋は、庭師のための小屋だ。そして先ほど通り抜けた庭には、枯れた薔薇があった。ならば必ず“あれ”がある。
 庭木のための肥料、腐葉土などが積み上げられた袋を一つ一つ片付けていく。そうしてようやく、それを見つけた。
 炭酸カルシウム。農業や園芸で、酸性化した土壌を中和するために用いられる。薔薇は中性を好む性質があるから、きっとあるに違いないと思っていた。この白色の粉末を使えば、恐ろしい事態を引き起こすことが可能なはずだった。
 口と鼻を布で覆い、吸い込まないように注意する。それから、そこにあった段ボールを手に取って、ゆっくりゆっくりと炭酸カルシウムを扇いだ。白い粉がふわふわと空中に漂う。みるみるうちに視界が白く染まっていく。粉が空気中に散漫して、視界が0になるまでシロは扇ぎ続けた。

   +++

 バタン!という大きな音に、庭の見張りたちの意識が一点に集中した。
 ばたばたと駆け付けてくる複数の足音が、本邸そばの小屋の前に集まった。3、2、1、……と数えた次の瞬間に勢いよく扉が開かれた。

「うわっ」

 げほっ、という咳き込む声に続いて、ゲホゲホと噎せる声が重なる。

「何だよこれ……おい、誰か電気!」

 ゲホゲホと咳き込みながら告げる声に、一人の手が壁のスイッチに伸びた。



 地鳴りかと思うほどの轟音がして、小屋が吹っ飛ぶのをシロは屋敷陰から見ていた。そして急いで身を翻す。本邸に忍び込むなら、今しかなかった。
 トキの店で働いていた頃、シロは何度か店を半壊にしかけたことがある。油に火を引火させてしまったり、煮えたぎった油に水を注いでしまったりと様々なことをしでかしたが、中でも一番恐ろしかったのは粉塵爆発だった。空気中に充満した可燃性の粉塵に火が付き、爆発を引き起こす。その威力は凄まじかった。それを今、わざと引き起こしたのだ。……切れた電線に通電させることで、火花を起こして。

 ――ユキ、今いくから

 何人か怪我をしたかもしれない、死んだかもしれないと思うと手が震えたが、後ろを振り返る気にはならなかった。ここで躊躇って、間に合わなかったら。ユキに取り返しの付かないことが起きてしまったら。そう思うと、シロの足は一人でに速くなった。
 何が何でもユキを見つける。見つけて、連れて帰る。それだけを思って、シロは走った。

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