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■ それは陽だまりに似た 9

 後ろ手に縛られ、瀕死の重症を負わされた身ではチャンスはきっと一回しかない。

 ――あと少し、もう少し……

 あと少しで嵐が来るはずだった。
 白い悪魔と恐れられるレース・プーブリカ共和国の脅威、だが幼いユキをいつもシロのところへ連れて行ってくれた嵐が。
 嵐が来たら、レース・プーブリカは完全に閉ざされる。侵略の手はもちろん、横槍も、救援さえも届かない。完全なる孤立。何が起きたとしても、世界がそれを知るのは全てが終わった後だ。

 ――あと、少し……

 空啼きを待つユキの脳裏に、ふいにシロの横顔が浮かぶ。シロの顔が見たい……そう、思った。
 シロに会いたい。思い始めたらもう目を背け続けてきた本音から逃れることはもうかなわなかった。“シロが求めているのは自分じゃない”“シロのことは、継ぎ接ぎだらけの記憶の中でしか知らない”、そんな言い訳はこの期に及んではもう通用しなかった。リーネア・レクタ上層部に目をつけられた自分のそばにいることはあのひとのためにならないと――危険から遠ざけるため、あのひとを守るためにと嫌われることを選んだはずだったのに。
 ユキの中にふつふつと湧き上がる記憶。その記憶の中のシロが恋しかった。ユキの中に唯一残る、あたたかなもの。

 もしもそれを受け取る資格が、今の自分にはないのだとしても。

 ――あと、少し

 あと少しで、全てが終わる。
 全てが終わった後、自分が死んでいたらシロはどんな顔をするだろうか。何と、言ってくれるだろうか。
 罵倒でも拒絶でもなんでもいい、何かしら想ってもらえたらそれでいい。それこそが、あの事故を生き延びた自分が――シロの“ユキ”は死んだのに、生き延びてしまった自分が、今まで生きた意味となるから。

 ――あと、……

 遠くなりそうな意識を必死に引き留める。ガリ、と噛んだ舌の端から血が口腔に溢れた。
 窓の外、逆巻く風の音が聞こえる。ズズズ……、という不穏な音。目の前の二匹は気づかない。部屋には他にも闇ブローカーのものたちがいたが、誰も忍び寄る危機に気づかない。地鳴りのような。下から響く、音。
 それが少しずつ少しずつ、大きくなって、やがて。

 ふっ、と全ての音が消えた。

「……何だ?!」

 轟音と地鳴り、そして地が沈んだかと思われるほどの揺れ。彼らが僅かに体勢を崩したその瞬間、ユキは跳ね起き渾身の力を込めてヤマイヌの男の首に噛み付いた。

「ぎゃあああぁぁぁ!!!」

 悲鳴を上げてもんどり打つ男を、さらに強く食い締める。ぶち、と千切れる音がすると同時に、奥歯しっかりと深く刺さる感触。仕込んであった麻酔が効いて、男からだらりと力が抜ける。それを確認してから牙を抜いた。

「……っ、この!」

 黒牛の声と同時に倒れ込んだユキの鼻先を、ぶん、と刃が空を切った。だが続けざまに第二波が襲い来る。避けられない。その気配を感じながらも、もうユキは動けなかった。
 さっきの無理な動きで、折れた肋骨が内臓に刺さった気がする。痛みに歪む視界。だが後悔はなかった。ヤマイヌの男――ユキの抹殺を意図してここに呼び出したあの男さえ押さえておけば、後は何とかなる。闇ブローカーの処理が多少面倒かもしれないが、さしたる手間はかからないだろう。
 迫り来る刃を瞬きすらせずに見つめる。
 その切っ先が身に食い込みそうになった時、……ユキは壁際に吹っ飛ばされた。

「ぃ、………っ!!!」

 激痛に身悶える。だがその身体に触れる手があった。壁にぶつかった衝撃は大きかったが、それをやわらげようとユキの頭をしっかり抱え込んでいる腕がある。顔が、額が、鼻先が、胸に埋まっていた。
 懐かしい、匂い。
 春の陽射しのように穏やかであたたかく、包み込むような優しさ。もしも“幸せ”を形にしたのならきっとそれはこのひとの形をしている、そうこの三ヶ月間、何度も思った。会いたくて会えなくて、会う資格すらなくて、なのに何度も夢に見た。夢の中でさえ触れられなくて、遠くから見つめることしかできなかった。

「し…ろ……さ……」

 震える唇で発した言葉は、ほとんど音を成さなかった。何故ここにいるのかわからない。けれどそれをきちんと聞き取ったらしいそのひとは、ふっと腕から力を抜いた。ゆっくりと腕の中のユキの顔を覗き込む。透き通るようなグリーンサファイアの瞳がホッとしたように細められた。

「ユキ」

 愛おしむような声音に、喉奥が震える。鼻の奥がじぃんと痛んで、目に涙が溜まった。

「しろ…さん……」

 言えなかった言葉。呼べなかった名前。それが胸の奥で溢れ出る。

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