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■ それは陽だまりに似た 10

「シロ、さん……」

 たどたどしく、初めて言葉を発する子どものように繰り返した。

「シロさん……シロさん……!」

 ユキの目からぼろぼろと涙がこぼれる。止まらなかった。何と言えばいいのかすらわからなかった。ただ繰り返し、繰り返し名前を呼ぶことしかできない。

「シロ、さ……っ」
「ごめんね、ユキ」

 しゃくりをあげるユキの頭を撫でて、シロはぎゅっと抱きしめてくれる。そして、ごめん、ともう一度呟いた。

「ひとりにしてごめん。でももう大丈夫だよ。なにもこわくない。……これからは、ずっと一緒だから」

 どんなユキでも、愛してるから。
 そう囁くように呟いたシロは、眼前を見つめていた。その視線の先を追ったユキの目に入ったのは、迫り来る白刃。ああまずい、そう思ったけれどシロは微動だにしなかった。シロだけでも、そう思いはするもののもう力が入らない。そんなユキを抱きしめて、シロは真っ直ぐに前だけを見ていた。

 ──ああ、……

 シロさんだ。そう思った。
 諦念ではない。ただ真っ直ぐに前を見つめるその瞳こそが、初めて会ったときにユキを恐怖から引き揚げてくれたあたたかさだった。同級生にいじめられたときに守ってくれた優しさだった。シロが欲しいと焦ったときに窘めてくれた思いやりだった。遠く離れていてもユキを見守ってくれた慈愛だった。そして。シロと共に生きたいと望んだユキの手を取ってくれた、強さだった。
 ぱちん、と音を立ててユキの中の明かりが灯る。怒濤のように記憶が溢れ出した。一緒に家具を探したこと、一緒にメニューを考えたこと。一緒に食べ歩きをしたこと、一緒に買い出しをしたこと。一緒に昼寝をして、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って一緒に寝た。一緒に起きて、一緒に支度をしていつも一緒に家を出ていた。“幸せな日々”、そうとしか言い表せないものがそこにはあった。
 ユキの視界が一気に開ける。世界が色を取り戻した瞬間だった。

「シロさんっ!!」

 己を抱きしめるシロごと横に転がる。蘇る、失う恐怖。記憶を失った爆破事件の時のこと、詳細なんて知らないけれど、失う恐怖だけは覚えている。げほ、と血反吐が零れるが気にしている余裕はなかった。

「ダメだ、ユキ!」

 シロの静止の声を振り切る。このひとだけは絶対に死なせない。そう歯を食いしばった、その瞬間。

 ドォォオオオン!

 轟音と共に窓枠ごと壁が吹っ飛ぶ。雪が嵐に乗って雪崩のように吹き込み、適温に保たれていた室内はあっという間に氷点下となった。
 次いで、白いサーチライトの光が室内を照らす。バラバラと音を立てて特殊ヘリが姿を現した。

「あー、そこまで。逃げない逃げない、逃げても無駄だから」

 そんなユキとシロの耳に、のんきな声が届く。吹っ飛んだ壁とは反対側のドアから音もなく入ってきていた黒づめの男たちが、闇ブローカーのものを次々に拘束していた。

「アオ!」

 レース・プーブリカの嵐にも対応可の完全防寒スタイルのその男は、ご丁寧にも防雪マスクまで被っていて顔が全く見えない。しかしその気の抜けた声には覚えがあった。
 シロが歓喜の声を上げる。

「ったく、面倒ばかり起こして。少しは反省してください」

 次いで、冷たく言い放つ声。

「クロ!!」

 シロの声に、その人物は軽く肩をすくめた。そんな男にシロはさらに言葉を重ねる。

「よかった、絶対来てくれるって信じてた!」

「来てほしかったなら、もう少しわかりやすい書き方はなかったんですか」

「……え、わかりにくかった?」

「滅茶苦茶わかりにくいですね。“国道267の上り58番目の黒いお屋敷”って」

「えー、だって病院からの移動中にすごい急いでメール書いたし」

「でも、せめて住所を書くとか」

 シロとクロの会話に、肩の力が抜けていく。

 ──ああよかった、もう大丈夫だ

 そう思ったのを最後に意識が遠のく。ユキ!と叫ぶシロの声が聞こえた気がした。だがそれも、もう確かなところはわからなかった。

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